ましょう。」
「一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で歩行《ある》けそうです。――助かった。恩に被《き》ますよ。」
「とんでもない、でも、まあ、嬉しい。」
「まったく活返った。」
「ではその元気で、上のおさらいへいらっしゃるか。そこまで、おともをしてもよござんす。」
「で、演《や》っていますかね。三味線の音でも聞こえますか。」
「いいえ。」
「途中で、連中らしいのでも見ませんか。」
「人ッこ一人、……大びけ過ぎより、しんとして薄気味の悪いよう。」
「はてな、間違《まちがい》ではなかろうが、……何しろ、きみは、ちっともその方に引っかかりはないのでしたね。」
「ええ、私は風来ものの大気紛れさ、といううちにも、そうそう。」
 中腰の膝へ、両肱《りょうひじ》をついた、頬杖《ほおづえ》で。
「じかではなくっても――御別懇の鴾先生の、お京さんの姉分だから、ご存じだろうと思いますが……今、芝、明舟町《あけふねちょう》で、娘さんと二人で、お弟子を取っています、お師匠さん、……お民さんのね、……まあ、先生方がお聞きなすっては馬鹿々々しいかも知れませんが、……目を据える、生命《いのち》がけの事がありましてね、その事で、ちょっと、切ッつ、はッつもやりかねないといった勢《いきおい》で、だらしがないけども、私がさ、この稽古棒(よっかけて壁にあり)を槍《やり》、鉄棒《かなぼう》で、対手《あいて》方へ出向いたんでござんすがね、――入費《いりよう》はお師匠さん持だから、乗込みは、ついその銀座の西裏まで、円タクさ。
 ――呆《あき》れもしない、目ざす敵《かたき》は、喫茶店、カフェーなんだから、めぐり合うも捜すもない、すぐ目前《めのまえ》に顕《あら》われました。ところがさ、商売柄、ぴかぴかきらきらで、廓《くるわ》の張店《はりみせ》を硝子張《がらすばり》の、竜宮づくりで輝かそうていったのが、むかし六郷様の裏門へぶつかったほど、一棟、真暗《まっくら》じゃありませんか。拍子抜とも、間抜けとも。……お前さん、近所で聞くとね、これが何と……いかに業体《ぎょうてい》とは申せ、いたし方もこれあるべきを、裸で、小判、……いえさ、銀貨を、何とか、いうかどで……営業おさし留めなんだって。……
 出がけの意気組が意気組だから、それなり皈《かえ》るのも詰りません。隙《ひま》はあるし、
前へ 次へ
全25ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング