につけ、店の亭主が向顱巻《むこうはちまき》で気競《きそ》うから菊正宗の酔《えい》が一層|烈《はげ》しい。
 ――松村さん、木戸まで急用――
 いけ年《どし》を仕《つかまつ》った、学芸記者が馴《な》れない軽口の逃《にげ》口上で、帽子を引浚《ひっさら》うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口《のきぐち》を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、同伴《つれ》に催促されるまで酔潰《よいつぶ》れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、憑《つき》ものがしたようだ、怪我《けが》をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。
 が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓《げいしゃ》連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀《はげ》の爺《じい》さんが、肥《ふと》った若い妓《こ》にしなだれたのか、浅葱《あさぎ》の襟をしめつけて、雪駄《せった》をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、熱燗《あつかん》に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと咽喉《のど》へ支《つか》えさしていたのが、いちどきに、赫《かっ》となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。
 たちまち群集の波に捲《ま》かれると、大橋の橋杭《はしぐい》に打衝《ぶッつか》るような円タクに、
「――環海ビルジング」

「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」
 おやおや、会場は近かった。土橋《どばし》寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立《しょうりつ》した中にこの仄白《ほのじろ》いのが、四角に暗夜《やみ》を抽《ぬ》いた、どの窓にも光は見えず、靄《もや》の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白《まっしろ》な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く
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