開けるとな。……血肝《ちぎも》と思った真赤《まっか》なのが、糠袋《ぬかぶくろ》よ、なあ。麝香入《じゃこういり》の匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身《はだみ》を湯で磨く……気取ったのは鶯《うぐいす》のふんが入る、糠袋が、それでも、殊勝に、思わせぶりに、びしょびしょぶよぶよと濡れて出た。いずれ、身勝手な――病《やまい》のために、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰って、腹を割《さ》いた婦《おんな》の死体をあらためる隙《ひま》もなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通《めどおり》、庭前《にわさき》で斬《き》られたのさ。
いまの祠《ほこら》は……だけれど、その以前からあったというが、そのあとの邸だよ。もっとも、幾たびも代は替った。
――余りな話と思おうけれど、昔ばかりではないのだよ。現に、小母さんが覚えた、……ここへ一昨年《おととし》越して来た当座、――夏の、しらしらあけの事だ。――あの土塀の処に人だかりがあって、がやがや騒ぐので行ってみた。若い男が倒れていてな、……川向うの新地帰りで、――小母さんもちょっと見知っている、ちとたりないほどの色男なんだ――それが……医師《いしゃ》も駆附けて、身体《からだ》を検《しら》べると、あんぐり開けた、口一杯に、紅絹《もみ》の糠袋……」
「…………」
「糠袋を頬張《ほおば》って、それが咽喉《のど》に詰《つま》って、息が塞《ふさが》って死んだのだ。どうやら手が届いて息を吹いたが。……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯上りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さんの舌をな。」
と、小母さんは白い顔して、ぺろりとその真紅《まっか》な舌。
小僧は太い白蛇に、頭から舐《な》められた。
「その舌だと思ったのが、咽喉へつかえて気絶をしたんだ。……舌だと思ったのが、糠袋。」
とまた、ぺろりと見せた。
「厭《いや》だ、小母さん。」
「大丈夫、私がついているんだもの。」
「そうじゃない。……小母さん、僕もね、あすこで、きれいなお嬢さんに本を借りたの。」
「あ。」
と円い膝に、揉《も》み込むばかり手を据えた。
「もう、見たかい。……ええ、高島田で、紫色の衣《き》ものを着た、美しい、気高い……十八九の。……ああ、悪戯《いたずら》をするよ。」
と言った。小母さんは、そのおばけを、魔を、鬼を、――ああ、悪戯をするよ、と独言《ひとりごと》して、その時はじめて真顔になった。
私は今でも現《うつつ》ながら不思議に思う。昼は見えない。逢魔《おうま》が時からは朧《おぼろ》にもあらずして解《わか》る。が、夜の裏木戸は小児心《こどもごころ》にも遠慮される。……かし本の紙ばかり、三日五日続けて見て立つと、その美しいお嬢さんが、他所《よそ》から帰ったらしく、背《せな》へ来て、手をとって、荒れた寂しい庭を誘って、その祠《ほこら》の扉を開けて、燈明の影に、絵で知った鎧《よろい》びつのような一具の中から、一冊の草双紙を。……
「――絵解《えとき》をしてあげますか……(註。草双紙を、幼いものに見せて、母また姉などの、話して聞かせるのを絵解と言った。)――読めますか、仮名ばかり。」
「はい、読めます。」
「いい、お児《こ》ね。」
きつね格子に、その半身、やがて、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた顔が覗《のぞ》いて、見送って消えた。
その草双紙である。一冊は、夢中で我が家の、階子段《はしごだん》を、父に見せまいと、駆上る時に、――帰ったかと、声がかかって、ハッと思う、……懐中《ふところ》に、どうしたか失《う》せて見えなくなった。ただ、内へ帰るのを待兼ねて、大通りの露店の灯影《ともしび》に、歩行《ある》きながら、ちらちらと見た、絵と、かながきの処は、――ここで小母さんの話した、――後のでない、前の巳巳巳の話であった。
私は今でも、不思議に思う。そして面影も、姿も、川も、たそがれに油を敷いたように目に映る。……
大正…年…月の中旬、大雨《たいう》の日の午《うま》の時頃から、その大川に洪水した。――水が軟《やわらか》に綺麗で、流《ながれ》が優しく、瀬も荒れないというので、――昔の人の心であろう――名の上へ女をつけて呼んだ川には、不思議である。
明治七年七月七日、大雨の降続いたその七日七晩めに、町のもう一つの大河が可恐《おそろし》い洪水した。七の数が累《かさ》なって、人死《ひとじに》も夥多《おびただ》しかった。伝説じみるが事実である。が、その時さえこの川は、常夏《とこなつ》の花に紅《べに》の口を漱《そそ》がせ、柳の影は黒髪を解かしたのであったに――
もっとも、話の中の川堤《かわづつみ》の松並木が、やがて柳になって、町の目貫《めぬき》へ続く処に、木造の大橋があったのを、この年、石に架《かけ》かえた。工事七分という処で、橋杭《はしぐい》が鼻の穴のようになったため水を驚かしたのであろうも知れない。
僥倖《さいわい》に、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじて凌《しの》いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。
若い時から、諸所を漂泊《さすら》った果《はて》に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階|借《がり》した小僧の叔母《おば》にあたる年寄《としより》がある。
水の出盛った二時半頃、裏|向《むき》の二階の肱掛窓《ひじかけまど》を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝《ひざ》を宙に水を見ると、肱の下なる、廂屋根《ひさしやね》の屋根板は、鱗《うろこ》のように戦《おのの》いて、――北国の習慣《ならわし》に、圧《おし》にのせた石の数々はわずかに水を出た磧《かわら》であった。
つい目の前を、ああ、島田髷《しまだまげ》が流れる……緋鹿子《ひがのこ》の切《きれ》が解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条《ひとすじ》の真赤《まっか》な蛇。手箱ほど部の重《かさな》った、表紙に彩色絵《さいしきえ》の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅《べに》の雫《しずく》を挙げて、その並木の松の、就中《なかんずく》、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽《むせ》んだ葉に隠れた。――瞬く間である。――
そこら、屋敷小路の、荒廃離落した低い崩土塀《くずれどべい》には、おおよそ何百年来、いかばかりの蛇が巣くっていたろう。蝮《まむし》が多くて、水に浸った軒々では、その害を被ったものが少くない。
高台の職人の屈竟《くっきょう》なのが、二人ずれ、翌日、水の引際を、炎天の下に、大川|添《ぞい》を見物して、流《ながれ》の末一里|有余《あまり》、海へ出て、暑さに泳いだ豪傑がある。
荒海の磯端《いそばた》で、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、颯《ざあ》と風の通る音がして、思わず脊筋も悚然《ぞっ》とした。……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気《いきれ》の裡《なか》に、透《すき》なく打った細い杭《くい》と見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじような状《さま》して、おなじように、揃って一尺ほどずつ、砂の中から鎌首を擡《もた》げて、一斉に空を仰いだのであった。その畝《うね》る時、歯か、鱗か、コツ、コツ、コツ、カタカタカタと鳴って響いた。――洪水に巻かれて落ちつつ、はじめて柔《やわらか》い地を知って、砂を穿《うが》って活《い》きたのであろう。
きゃッ、と云うと、島が真中《まんなか》から裂けたように、二人の身体《からだ》は、浜へも返さず、浪打際《なみうちぎわ》をただ礫《つぶて》のように左右へ飛んで、裸身《はだか》で逃げた。
[#地から1字上げ]大正十五(一九二六)年一月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年6月25日公開
2005年9月26日修正
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