もっとも、話の中の川堤《かわづつみ》の松並木が、やがて柳になって、町の目貫《めぬき》へ続く処に、木造の大橋があったのを、この年、石に架《かけ》かえた。工事七分という処で、橋杭《はしぐい》が鼻の穴のようになったため水を驚かしたのであろうも知れない。
 僥倖《さいわい》に、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじて凌《しの》いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。
 若い時から、諸所を漂泊《さすら》った果《はて》に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階|借《がり》した小僧の叔母《おば》にあたる年寄《としより》がある。
 水の出盛った二時半頃、裏|向《むき》の二階の肱掛窓《ひじかけまど》を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝《ひざ》を宙に水を見ると、肱の下なる、廂屋根《ひさしやね》の屋根板は、鱗《うろこ》のように戦《おのの》いて、――北国の習慣《ならわし》に、圧《おし》にのせた石の数々はわずかに水を出た磧《かわら》であった。
 つい目の前を、ああ、島田髷《しまだまげ》が流れる……緋鹿子《ひがのこ》の切《きれ》が解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条《ひとすじ》の真赤《まっか》な蛇。手箱ほど部の重《かさな》った、表紙に彩色絵《さいしきえ》の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅《べに》の雫《しずく》を挙げて、その並木の松の、就中《なかんずく》、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽《むせ》んだ葉に隠れた。――瞬く間である。――
 そこら、屋敷小路の、荒廃離落した低い崩土塀《くずれどべい》には、おおよそ何百年来、いかばかりの蛇が巣くっていたろう。蝮《まむし》が多くて、水に浸った軒々では、その害を被ったものが少くない。

 高台の職人の屈竟《くっきょう》なのが、二人ずれ、翌日、水の引際を、炎天の下に、大川|添《ぞい》を見物して、流《ながれ》の末一里|有余《あまり》、海へ出て、暑さに泳いだ豪傑がある。
 荒海の磯端《いそばた》で、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、颯《ざあ》と風の通る音がして、思わず脊筋も悚然《ぞっ》とした。……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気《いきれ》の裡《なか》に、透《すき》なく打った細い杭《くい》と見るばかり、幾百条とも知れない、
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