ず》と蹈《ふ》まへ、ぢろりと此方《こなた》を流眄《しりめ》に懸けたり。
「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」
 同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花[#「李花」に丸傍点]の手足を圧伏《おしふ》せぬ。
「国賊! これでどうだ。」
 海野はみづから手を下《お》ろして、李花[#「李花」に丸傍点]が寝衣《しんい》の袴《はかま》の裾《すそ》をびりりとばかり裂《つんざ》けり。

       八

 時に彼《か》の黒衣《こくい》長身の人物は、ハタと煙管《きせる》を取落しつ、其方《そなた》を見向ける頭巾《ずきん》の裡《うち》に一双の眼《まなこ》爛々《らんらん》たりき。
 あはれ、看護員はいかにせしぞ。
 面《おもて》の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露《あら》はさで、渠はなほよく静《せい》を保ち、徐《おもむ》ろにその筒服《ズボン》を払ひ、頭髪のややのびて、白き額《ひたい》に垂れたるを、左手《ゆんで》にやをら掻上《かきあ》げつつ、卓《つくえ》の上に差置きたる帽を片手に取ると斉《ひと》しく、粛然《しゅくぜん》と身を起して、
「諸君。」
 とばかり言ひすてつ。
 海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙《ひま》より、真白く細き手の指の、のびつ、屈《かが》みつ、洩《も》れたるを、纔《わずか》に一目《ひとめ》見たるのみ。靴音|軽《かろ》く歩を移して、そのまま李花[#「李花」に丸傍点]に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆|疾《と》く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花[#「李花」に丸傍点]のなきがらぞ蒼《あお》かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩《かっぽ》坐中に動《ゆる》ぎ出《いで》て、燈火を仰ぎ李花[#「李花」に丸傍点]に俯《ふ》して、厳然として椅子に凭《よ》り、卓子《ていぶる》に片肱《かたひじ》附きて、眼光|一閃《いっせん》鉛筆の尖《さき》を透《すか》し見つ。電信用紙にサラサラと、
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 月 日  海城《かいじょう》発
予は目撃せり。
日本軍の中には赤十字の義務を完《まっとう》して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心《てきがいしん》のために清国《てきこく》の病婦を捉《とら》へて、犯し辱《はずかし》めたる愛国
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