ておけ》から水を結び、効々《かいがい》しゅう、嬰児《ちのみ》を腕《かいな》に抱いたまま、手許も上《うわ》の空で覚束《おぼつか》なく、三ツばかり握飯《にぎりめし》。
 潮風で漆の乾《から》びた、板昆布《いたこぶ》を折ったような、折敷《おしき》にのせて、カタリと櫃を押遣《おしや》って、立てていた踵《かかと》を下へ、直ぐに出て来た。
「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」
 今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻《さっき》口を指したまま、鱗《うろこ》でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮《はずみ》か、冴《さえ》か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹《かに》を潰《つぶ》した渋柿に似てころりと飛んだ。
 僧はハアと息が長い。
 余《あまり》の事に熟《じっ》と視《み》て、我を忘れた女房、
「何をするんですよ。」
 一足|退《の》きつつ、
「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」
 と屹《きっ》といったが、腹立つ下に心弱く、
「御坊《おぼう》さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
 それでは御膳《おぜん》にしてあげましょうか。
 そうしましょうかね。
 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児《こども》に世話が焼けますのに、入相《いりあい》で忙《せわ》しいもんですから。……あの、茄子《なす》のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」
 薄暗がりに頷《うなず》いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、
「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」
 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固《かたま》って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
 これにギョッとして立淀《たちよど》んだけれども、さるにても婦人《おんな》一人。
 ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間《ま》ももどかしく、良人《おっと》の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜《くやし》かったけれども、目を瞑《ねむ》って、やがて嬰児《ちのみ》を襟に包んだ胸を膨《ふく》らかに、膳を据えた。
「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可《いけ》ません、ようござんすか。」
 と茶碗に堆《うずたか》く装《も》ったのである。
 その時、間《ま》の四隅を籠《こ》めて、真中処《まんなかどころ》に、のッしりと大胡坐《おおあぐら》でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆《くつがえ》った。
「あれえ、」
 と驚いて女房は腰を浮かして遁《に》げさまに、裾《すそ》を乱して、ハタと手を支《つ》き、
「何ですねえ。」
 僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中《うち》にも袖で庇《かば》った、女房の胸をじりりとさしつつ、
(児《こ》を呉《く》れい。)
 と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋《とりすが》って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷《つめた》くなっていた。
 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁《すなど》る海の幸よ。
 その夜はやがて、砂白く、崖《がけ》蒼《あお》き、玲瓏《れいろう》たる江見の月に、奴《やっこ》が号外、悲しげに浦を駈《か》け廻って、蒼海《わたつみ》の浪ぞ荒かりける。
[#地から1字上げ]明治三十九年(一九〇六)年一月



底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
   2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月30日発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
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