てまた泳ぐ。
「此奴《こいつ》」
 と思わず呟《つぶや》いて苦笑した。
「待てよ」
 獲物《えもの》を、と立って橋の詰《つめ》へ寄って行《ゆ》く、とふわふわと着いて来て、板と蘆《あし》の根の行《ゆ》き逢った隅《すみ》へ、足近く、ついと来たが、蟹《かに》の穴か、蘆の根か、ぶくぶく白泡《しろあわ》が立ったのを、ひょい、と気なしに被《かぶ》ったらしい。
 ふッ、と言いそうなその容体《ようだい》。泡を払うがごとく、むくりと浮いて出た。
 その内《うち》、一本《ひともと》根から断《き》って、逆手《さかて》に取ったが、くなくなした奴《やつ》、胴中《どうなか》を巻いて水分かれをさして遣《や》れ。
 で、密《そっ》と離れた処《ところ》から突ッ込んで、横寄せに、そろりと寄せて、這奴《しゃつ》が夢中で泳ぐ処を、すいと掻《か》きあげると、つるりと懸かった。
 蓴菜《じゅんさい》が搦《から》んだようにみえたが、上へ引く雫《しずく》とともに、つるつると辷《すべ》って、もう何《なん》にもなかった。
「鮹《たこ》の燐火《ひとだま》、退散《たいさん》だ」
 それみろ、と何か早《や》や、勝ち誇った気構《きがま》えして、蘆の穂を頬摺《ほほず》りに、と弓杖《ゆんづえ》をついた処は可《よ》かったが、同時に目の着く潮《うしお》のさし口。
 川から、さらさらと押して来る、蘆の根の、約二|間《けん》ばかりの切れ目の真中《まんなか》。橋と正面に向き合う処に、くるくると渦《うず》を巻いて、坊主《ぼうず》め、色も濃く赫《くわッ》と赤らんで見えるまで、躍り上がる勢いで、むくむく浮き上がった。
 ああ、人間に恐れをなして、其処《そこ》から、川筋を乗って海へ落ち行《ゆ》くよ、と思う、と違う。
 しばらく同じ処に影を練って、浮《う》いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。
 穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏《たそがれ》の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた。
 海月《くらげ》に黒い影が添って、水を捌《さば》く輪が大きくなる。
 そして動くに連《つ》れて、潮《しお》はしだいに増すようである。水《み》の面《も》が、水の面が、脈《みゃく》を打って、ずんずん拡《ひろ》がる。嵩《かさ》増《ま》す潮は、さし口《ぐち》を挟《はさ》んで、川べりの蘆《あし》の根を揺《ゆ》すぶる、……ゆらゆら揺すぶる。一揺《ひとゆ》り揺れて、ざわざわと動くごとに、池は底から浮き上がるものに見えて、しだいに水は増して来た。映《うつ》る影は人も橋も深く沈んだ。早《は》や、これでは、玄武寺《げんむじ》を倒《さかさ》に投げうっても、峰《みね》は水底《みなそこ》に支《つか》えまい。
 蘆のまわりに、円《まろ》く拡がり、大洋《わたつみ》の潮《うしお》を取って、穂先に滝津瀬《たきつせ》、水筋《みすじ》の高くなり行《ゆ》く川面《かわづら》から灌《そそ》ぎ込《こ》むのが、一揉《ひとも》み揉んで、どうと落ちる……一方口《いっぽうぐち》[#「一方口《いっぽうぐち》」は底本では「方口《いっぽうぐち》」]のはけ路《みち》なれば、橋の下は颯々《さっさっ》と瀬になって、畦《あぜ》に突き当たって渦《うず》を巻くと、其処《そこ》の蘆は、裏を乱《みだ》して、ぐるぐると舞うに連れて、穂綿が、はらはらと薄暮《うすくれ》あいを蒼《あお》く飛んだ。
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(さっ、さっ、さっ、
 しゅっ、しゅっ、しゅっ、
 エイさ、エイさ!)
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 と矢声《やごえ》を懸けて、潮《しお》を射て駈《か》けるがごとく、水の声が聞きなさるる。と見ると、竜宮の松火《たいまつ》を灯《とも》したように、彼の身体《からだ》がどんよりと光を放った。
 白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せた時、水が穂に被《かぶ》るばかりに見えた。
 ぴたぴたと板が鳴って、足がぐらぐらとしたので私《わたし》は飛び退《の》いた。土に下りると、はや其処に水があった。
 橋がだぶりと動いた、と思うと、海月は、むくむくと泳ぎ上がった。水はしだいに溢《あふ》れて、光物《ひかりもの》は衝々《つつ》と尾を曳《ひ》く。
 この動物は、風の腥《なまぐさ》い夜《よ》に、空《そら》を飛んで人を襲うと聞いた……暴風雨《あらし》の沖には、海坊主《うみぼうず》にも化《ばけ》るであろう。
 逢魔《おうま》ヶ時を、慌《あわただ》しく引き返して、旧《もと》来た橋へ乗る、と、
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(きりりりり)
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 と鳴った。この橋はやや高いから、船に乗った心地《ここち》して、まず意《こころ》を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂《たもと》まで潮《しお》が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸《いき》をするような仇光《あだびかり》で、
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(さっさっさっ。
 しゅっしゅっ、
 さっ、さっ!)
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 と曳々声《えいえいごえ》で、水を押し上げようと努力《つとむ》る気勢《けはい》。
 玄武寺《げんむじ》の頂なる砥《と》のごとき巌《いわお》の面《おも》へ、月影が颯《さっ》とさした。――



底本:「高野聖」集英社文庫、集英社
   1992(平成4)年12月20日第1刷発行
   1993(平成5)年6月5日第2刷発行
初出:「文章世界」
   1909(明治42)年7月
※修正箇所は「鏡花全集 卷十二」(岩波書店、1942)を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2008年12月5日作成
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