あ、骨まで冷抜《ひえぬ》いてしまうからよ、私《わし》が褞袍《どんつく》を枕許《まくらもと》に置いてある、誰も居ねえから起きるならそこで引被《ひっか》けねえ。」
といったが克明な色|面《おもて》に顕《あらわ》れ、
「おお、そして何よ、憂慮《きづかい》をさっしゃるな、どうもしねえ、何ともねえ、俺《おら》あ頸子《くびったま》にも手を触りやしねえ、胸を見な、不動様のお守札が乗っけてあら、そらの、ほうら、」
菊枝は嬉しそうに血の気のない顔に淋しい笑《えみ》を含んだ。
「むむ、」と頷《うなず》いたがうしろ向《むき》になって、七兵衛は口を尖《とん》がらかして、鍋《なべ》の底を下から見る。
屏風《びょうぶ》の上へ、肩のあたりが露《あらわ》れると、潮たれ髪はなお乾かず、動くに連れて柔かにがっくりと傾くのを、軽く振って、根を圧《おさ》えて、
「これを着ましょうかねえ。」
「洗濯をしたばかりだ、船虫は居ねえからよ。」
緋鹿子《ひがのこ》の上へ着たのを見て、
「待《また》っせえ、あいにく襷《たすき》がねえ、私《わし》がこの一張羅の三尺じゃあ間に合うめえ! と、可《よ》かろう、合したものの上へ〆《し》めるんだ、濡れていても構うめえ、どッこいしょ。」
七兵衛は※[#「虫+奚」、第3水準1−91−59]※[#「虫+斥」、第3水準1−91−53]《ばった》のような足つきで不行儀に突立《つった》つと屏風の前を一跨《ひとまたぎ》、直《すぐ》に台所へ出ると、荒縄には秋の草のみだれ咲《ざき》、小雨が降るかと霧かかって、帯の端|衣服《きもの》の裾《すそ》をしたしたと落つる雫《しずく》も、萌黄《もえぎ》の露、紫の露かと見えて、慄然《ぞっ》とする朝寒《あささむ》。
真中《まんなか》に際立って、袖も襟も萎《な》えたように懸《かか》っているのは、斧《よき》、琴、菊を中形に染めた、朝顔の秋のあわれ花も白地の浴衣である。
昨夜《ゆうべ》船で助けた際、菊枝は袷《あわせ》の上へこの浴衣を着て、その上に、菊五郎格子の件《くだん》の帯上《おびあげ》を結んでいたので。
謂《いわれ》は何かこれにこそと、七兵衛はその時から怪《あやし》んで今も真前《まっさき》に目を着けたが、まさかにこれが死神で、菊枝を水に導いたものとは思わなかったであろう。
実際お縫は葛籠《つづら》の中を探して驚いたのもこれ、眉を顰《ひそ》めたのもこれがためであった。斧と琴と菊模様の浴衣こそ菊枝をして身を殺さしめた怪しの衣《きぬ》、女《むすめ》が歌舞伎の舞台でしばしば姿を見て寐覚《ねざめ》にも俤《おもかげ》の忘られぬ、あこがるるばかり贔屓《ひいき》の俳優《やくしゃ》、尾上橘之助が、白菊の辞世を読んだ時まで、寝返りもままならぬ、病《やまい》の床に肌につけた記念《かたみ》なのである。
江崎のお縫は芳原の新造《しんぞ》の女《むすめ》であるが、心懸《こころがけ》がよくッて望んで看護婦になったくらいだけれども、橘之助に附添って嬉しくないことも無いのであった。
しかるに重体の死に瀕《ひん》した一日、橘之助が一輪ざしに菊の花を活《い》けたのを枕頭《まくらもと》に引寄せて、かつてやんごとなき某《なにがし》侯爵夫人から領したという、浅緑《あさみどり》と名のある名香《めいこう》を、お縫の手で焚《た》いてもらい、天井から釣《つる》した氷嚢《ひょうのう》を取除《とりの》けて、空気枕に仰向けに寝た、素顔は舞台のそれよりも美しく、蒲団《ふとん》も掻巻《かいまき》も真白《まっしろ》な布をもって蔽《おお》える中に、目のふちのやや蒼《あお》ざめながら、額にかかる髪の艶《つや》、あわれうらわかき神のまぼろしが梨園を消えようとする時の風情。
十三
橘之助は垢《あか》の着かない綺麗な手を胸に置いて、香《こう》の薫《かおり》を聞いていたが、一縷《いちる》の煙は二条《ふたすじ》に細く分れ、尖《さき》がささ波のようにひらひらと、靡《なび》いて枕に懸《かか》った時、白菊の方に枕を返して横になって、弱々しゅう襟を左右に開いたのを、どうなさいます? とお縫が尋ねると、勿体ないが汗臭いから焚《た》き占めましょう、と病苦の中に謂《い》ったという、香の名残《なごり》を留めたのが、すなわちここに在る記念《かたみ》の浴衣。
懐しくも床《ゆかし》さに、お縫は死骸の身に絡《まと》った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありながら、記念《かたみ》にと謂って強いて貰い受けて来て葛籠《つづら》の底深く秘め置いたが、菊枝がかねて橘之助|贔屓《びいき》で、番附に記した名ばかり見ても顔色を変える騒《さわぎ》を知ってたので、昨夜、不動様の参詣《さんけい》の帰りがけ、年紀《とし》下ながら仲よしの、姉さんお内かい、と寄った折も、何は差置き橘之助の噂《
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