う。」と縞の羽織が笑うと、舷に肱をついたのが向直って、
「何あてになるものか。」
「遣《や》って御覧《ごろう》じろ。」と橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸《なかだか》に溢《あふ》れるよう。左手《ゆんで》は洲《す》の岬《みさき》の蘆原《あしはら》まで一望|渺《びょう》たる広場《ひろっぱ》、船大工の小屋が飛々《とびとび》、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる。
「釣れる段か、こんな晩にゃあ鰻《うなぎ》が船の上を渡り越すというくらいな川じゃ。」と船頭は意気|頗《すこぶ》る昂《あが》る。
「さあ、心細いぞ。」
「一体この川は何という。」
「名はねえよ。」
「何とかありそうなものだ。」
「石見橋なら石見橋、蓬莱橋なら蓬莱橋、蛤町の河岸なら蛤河岸さ、八幡前、不動前、これが富岡門前の裏になります。」という時、小曲《こまがり》をして平清《ひらせい》の植込の下なる暗い処へ入って蔭になった。川面《かわづら》はますます明《あかる》い、船こそ数多《あまた》あるけれども動いているのはこの川にこれただ一|艘《そう》。
「こっちの橋は。」
 間近く虹《にじ》のごとく懸《かか》っているのを縞の羽織が聞くと、船頭の答えるまでもなく紋着が、
「汐見橋《しおみばし》。」
「寂《さみ》しいな。」
 この処の角にして船が弓なりに曲った。寝息も聞えぬ小家《こいえ》あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢《はか》なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯《さっ》と靡《なび》き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚《しろさんご》の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶《のりそだ》が堆《うずたか》く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼《あお》い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。

       六

「おお、気味悪い。」と舷《ふなばた》を左へ坐りかわった縞《しま》の羽織は大いに悄気《しょげ》る。
「とっさん、何だろう。」
「これかね、寛政|子年《ねどし》の津浪《つなみ》に死骸《しがい》の固《かたま》っていた処だ。」
 正面に、
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葛飾郡《かつしかごおり》永代築地
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