なた》の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。)
(一歩もここを動きません。)
 先生は、拱《こまぬ》いた腕を解いて言いましたぜ。」
 ――そうだろうと、私たちも思ったのである。

       十

「堪《たま》らねえやね。お前さん。
 私《わっし》あ猿坊《えてんぼ》のように、ちょろりと影を畝《うね》って這出《はいだ》して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押《おッ》つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。
 ――若奥様の手が、もう懐中《ふところ》に入った時でございますよ。
(御免遊ばせ。)
 と縋《すが》りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度|辷《すべ》りました。
(ああ、ちょっと。)
 と若奥様が、手で圧《おさ》えて、
(どうぞ……そればかりは。)
 と清《すず》しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。
 舌の硬《こわ》ばったような先生が、
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
 と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下《あなた》が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法は択《えら》びません。短銃《ピストル》なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。)
(旦那様。)
 と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思《おもい》の目を凝らした。
(はあ、)
 と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉《ねえ》さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)
 と云って、若奥様が熟《じっ》と視《み》ました。
 先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除《おしの》けながら、
(これは余所《よそ》の娘です、あわれな孤児《みなしご》です。)
 とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
 と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽《あお》りもせぬのに気が立って、颯《さっ》と火の上る松明《たいまつ》より、紅《くれない》に燃立つばかり、緋《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》が半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前《ぜん》の婚礼の日の曠衣裳《はれいしょう》を、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。
 若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃《ピストル》を構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑《つむ》って立ちました。
(お身代りに私が。)
 とお道さんが、その前に立塞《たちふさ》がった。
「あ、危い、あなた。」
 と若旦那が声を絞った。
 若奥様は折敷いたままで、
(不可《いけ》ません――お道さん。)
(いいえ、本望でございます。)
(私が肯《き》きません。)
 と若奥様が頭《かぶり》を掉《ふ》ります。
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願《ねがい》を叶《かな》えて下さいまし。お情《なさけ》はうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活《い》きておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念《かたみ》の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂《まえだれ》した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着《もんつき》、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇《かたき》の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念《かたみ》だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加《みょうが》に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児《みなしご》の、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児《こ》も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
 若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
 先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯《じょうだん》にするように、手を取って、泣笑《なきわらい》をして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思い
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