る。
(夫人《おくさん》。)
 と先生はうつむいたままで、
(再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、私《わたくし》一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前《まのあたり》に、貴方のお姿に対しましては、何も申上げる言《ことば》を覚えません、ただしかし、唯今。)
 と、よろめいて立って、椅子の手に縋《すが》りました。
(唯今、一言《ひとこと》御挨拶を申上げます。)
 と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱《ひっかか》えたようなものではない、千|仭《じん》の重さに堪えない体《てい》に、大革鞄を持った胸が、吐呼吸《といき》を浪に吐《つ》く。
 それと見ると、簑《みの》を絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、搦《から》んで、縺《もつ》れて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。
 ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足|退《さが》って、起立の形《なり》で、
(もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜《にんちく》の行為《おこない》に対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)
 若旦那が、
(よろしいか。)
 とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。
(はい。)
 と、若奥様は潔い。
 若旦那はまっすぐに立直って、
(立野さん。)
(…………)
(では、御要求をいたします。)
(謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。)
(そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。)
(承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、汚《けが》れるぞ。)
 と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。
(立野さん。貴下《あなた》は革鞄の全形と折重《おりかさな》って、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)
 と云う声が少し震えました。
(貴下に、その紫の袖を許しました、その責《せめ》に任ずるために、ここに短銃《ピストル》を所持しております、――その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切《いき》るのです。錠前を射切《うちき》って、その片袖を――同棲三年間――まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、更《あらた》めて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体《からだ》に向うのです。万一お生命《いのち》を縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一|人《にん》の親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、何《なん》とぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日に亙《わた》りまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬《しっと》と言われ、じんすけと嘲《あざ》けられつつも、多勢《たぜい》の人数を狩集《かりあつ》めて、あの辺の汽車の沿道一帯を、粟《あわ》、蕎麦《そば》、稲を買求めて、草に刈り、芥《あくた》にむしり、甚しきは古塚の横穴を発《あば》いてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。――唯今……要求しますのは、その後《のち》の決心である事を諒《りょう》として下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。――最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、その大《おおき》さと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、――家の地続きを劃《しき》って、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)
 ――私《わっし》はすくんだね――
(夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃《ピストル》は特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしか籠《こ》めてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。――もっとも革鞄と重《かさな》ってお立ち下さいますのに、その間隔は、五|間《けん》、十間、あるいは百間、三百間、貴下《あ
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