わざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達《あだち》ヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋《わらじ》を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚《わめ》くんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込《ひっこ》むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
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わが心なぐさめかねつ更科《さらしな》や
姨捨山に照る月をみて
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照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可《い》いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場《ステエション》で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
しかるところ、暗がりに目が馴《な》れたのか、空は星の上に星が重《かさな》って、底《そこひ》なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪《ふくりん》はかからぬが、自《おのず》から月の出の光が山の膚《はだ》を透《とお》すかして、巌《いわ》の欠《かけ》めも、路の石も、褐色《かばいろ》に薄く蒼味《あおみ》を潮《さ》して、はじめ志した方へ幽《かすか》ながら見えて来た。灯前《あかりさき》の木の葉は白く、陰なる朱葉《もみじ》の色も浸《にじ》む。
かくして辿《たど》りついた薄暗い饂飩屋であった。
何《なん》しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤《すす》けた腰障子の、それも宵ながら朦朧《もうろう》と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大《おおき》な字が、鼾《いびき》をかいていそうに見えた。
この店の女房が、東京ものは清潔《きれい》ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸《ゆわかし》を達引《たてひ》いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々|酷過《ひどす》ぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
実は、この段、囁《ささや》き合って、ちょうどそこが三岐《みつまた》の、一方は裏山へ上る山岨《やまそば》の落葉の径《こみち》。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯《ひ》は遠し、
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