す、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀《ナイフ》をもって革鞄を切開く事なのです。……私《わたくし》は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘《さや》をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相《けんそう》な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹《きっ》と猜疑《さいぎ》の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
 と一言《ひとこと》、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切《ひっき》った。緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が※[#「火+發」、192−6]《ぱっ》と燃える、片身を火に焼いたように衝《つッ》と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集《つど》う群集は黒煙《くろけむり》に似たのである。
 技師は真俯向《まうつむ》けに、革鞄の紫の袖に伏した。
 乗合は喝采《かっさい》して、万歳の声が哄《どっ》と起った。
 汽車の進むがままに、私たちは窓から視《み》た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳《かざ》して此方《こなた》を見送った半身の紅《くれない》は、美しき血をもって描いたる煉獄《れんごく》の女精であった。
 碓氷の秋は寒かった。

       八

 藤助は語り継いだ。
「姉《ねえ》さんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可《いけ》ません。)
(やあ、つい麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》を。)
 と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声《こごえ》になって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、密《そっ》と出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
 とその容子《ようす》だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退《の》けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後《あとさき》を視《み》ましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵《こしら》えるより前《さき》に、手
前へ 次へ
全40ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング