あった。面構《つらがまえ》でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。
三
「私《わッし》はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突《つッ》くるみに売っている、天井に釣《つる》した蕃椒《とうがらし》の方が、燈《ひ》よりは真赤《まっか》に目に立つてッた、皺《しな》びた店で、榾《ほだ》同然の鰊《にしん》に、山家|片鄙《へんぴ》はお極《きま》りの石斑魚《いわな》の煮浸《にびたし》、衣川《ころもがわ》で噛《くい》しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前《みせさき》で、やた一きめていた処でございましてね。
ちょっと私《わっし》の懐中合《ふところあい》と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪《とりにく》かったんでございますよ。というのが、焼山《やけやま》の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃《も》したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中《やまなか》で、……狼温泉――」
「ああ、どこか、三峰山《みつみねさん》の近所ですか。」
と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参《ぬけまい》りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐《こわ》い思いをした小村さんは、聞怯《ききおじ》をして口を入れた……噛《か》むがごとく杯を銜《ふく》みながら、
「あすこじゃあ、お狗様《いぬさま》と言わないと山番に叱られますよ。」
藤助は真顔で、微酔《ほろよい》の頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥《はるか》に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深《おく》へ入った、飛騨《ひだ》の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
山坂を踏越えて、少々|平《たいら》な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰《ひざた》はまた格別、……酷《ひど》い
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