宵の明星が晃然《きらり》と蒼《あお》い。
「あの山裾《やますそ》が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯《あかり》が見えるでございましょう。善光寺平《ぜんこうじだいら》でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと灯《ひ》が見えましょう、あそこが、八幡《やはた》の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今《ただいま》お火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
と座に戻ると、小村さんは真顔で膝《ひざ》に手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷《さじき》が落ちそうで危険《けんのん》ですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐《おそろ》しいね。」
と二人は顔を見合せた。
が、註文通り、火鉢に湯沸《ゆわかし》が天上して来た、火も赫《かッ》と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子《ちょうし》だけを借りて、持参の一升|壜《びん》の燗《かん》をするのに、女房は気障《きざ》だという顔もせず、お客|冥利《みょうり》に、義理にうどんを誂《あつら》えれば、乱れてもすなおに銀杏返《いちょうがえし》の鬢《びん》を振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香《こう》のものを差上げましょう。」
その心意気。
「難有《ありがた》い。」
と熱燗《あつかん》三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己《ちかづき》に……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞《ひとつ》。」
「もう、全く。」
「でも、一盞《ひとつ》ぐらい、お酌をしましょう。」
と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷《すべ》るように、しかも軋《きし》んで遁《に》げ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうか
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