深《せんしん》の紅《くれなゐ》、唯《たゞ》公《きみ》が命《めい》のまゝ也《なり》。昌黎《しやうれい》其《そ》の放語《はうご》を憎《にく》み、言《い》ふがまゝに其《そ》の術《じゆつ》をなせよと言《い》ふ。
猶子《いうし》先《ま》づ屏風《びやうぶ》を借《か》り得《え》て、庭《には》に牡丹叢《ぼたんさう》を蔽《おほ》ひ、人《ひと》の窺《うかゞ》ふことを許《ゆる》さず。獨《ひと》り其《そ》の中《なか》にあり。※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《くわ》の四方《しはう》を掘《ほ》り、深《ふか》さ其《そ》の根《ね》に及《およ》び、廣《ひろ》さ人《ひと》を容《い》れて坐《ざ》す。唯《たゞ》紫粉《むらさきこ》と紅《べに》と白粉《おしろい》を齎《もた》らし入《い》るのみ。恁《か》くて旦《あした》に暮《くれ》に其《そ》の根《ね》を治《をさ》む。凡《すべ》て一七日《いちしちにち》、術《じゆつ》成《な》ると稱《しよう》し、出《い》でて昌黎《しやうれい》に對《たい》して、はじめて羞《は》ぢたる色《いろ》あり。曰《いは》く、恨《うら》むらくは節《せつ》遲《おそ》きこと一月《ひとつき》なり、時《とき》既《すで》に冬《ふゆ》にして我《わ》が思《おも》ふがまゝならずと。然《しか》れども花《はな》開《ひら》いて絢爛《けんらん》たり。昌黎《しやうれい》植《う》うる處《ところ》、牡丹《ぼたん》もと紫《むらさき》、今《いま》は白紅《はくこう》にして縁《ふち》おの/\緑《みどり》に、月界《げつかい》の採虹《さいこう》玲瓏《れいろう》として薫《かを》る。尚《な》ほ且《か》つ朶《はなびら》ごとに一聯《いちれん》の詩《し》あり。奇《き》なる哉《かな》、字《じ》の色《いろ》分明《ぶんみやう》にして紫《むらさき》なり。瞳《ひとみ》を定《さだ》めてこれを讀《よ》めば――雲横秦嶺家何在《くもしんれいによこたはつていへいづくにかある》、雪擁藍關馬不前《ゆきらんくわんをようしてうますゝまず》――昌黎《しやうれい》、時《とき》に其《そ》の意《い》の何《なに》たるを知《し》らず。既《すで》にして猶子《いうし》が左道《さだう》を喜《よろこ》ばず、教《をし》ふべからずとして、江淮《かうくわい》に追還《おひかへ》す。
未《いま》だ幾干《いくばく》ならざるに、昌黎《しやうれい》、朝《てう》に佛骨《ぶつこつ》の表《へう》を奉《たてまつ》るに因《よ》り、潮州《てうしう》に流《なが》されぬ。八千《はつせん》の途《みち》、道《みち》に日《ひ》暮《く》れんとし偶《たま/\》雪《ゆき》降《ふ》る。晦冥陰慘《くわいめいいんさん》、雲《くも》冷《つめ》たく、風《かぜ》寒《さむ》く、征衣《せいい》纔《わづか》に黒《くろ》くして髮《かみ》忽《たちま》ち白《しろ》し。嶺《みね》あり、天《てん》を遮《さへぎ》り、關《せき》あり、地《ち》を鎖《とざ》し、馬《うま》前《すゝ》まず、――馬《うま》前《すゝ》まず。――孤影《こえい》雪《ゆき》に碎《くだ》けて濛々《もう/\》たる中《なか》に、唯《と》見《み》れば一簇《いつそう》の雲《くも》の霏々《ひゝ》として薄《うす》く紅《くれなゐ》なるあり。風《かぜ》に漂《たゞよ》うて横《よこ》ざまに吹《ふ》き到《いた》る。日《ひ》は暮《く》れぬ。豈《あに》夕陽《せきやう》の印影《いんえい》ならんや。疑《うたが》ふらくは紅涙《こうるゐ》の雪《ゆき》を染《そ》むる事《こと》を。
袖《そで》を捲《ま》いて面《おもて》を拂《はら》へば、遙《はるか》に其《そ》の雲《くも》の中《なか》に、韓湘《かんしやう》あり。唯一人《たゞいちにん》、雪《ゆき》を冒《をか》して何處《いづこ》よりともなく、やがて馬前《ばぜん》に來《きた》る。其《そ》の蓑《みの》紛々《ふん/\》として桃花《たうくわ》を點《てん》じ、微笑《びせう》して一揖《いちいふ》す。叔公《をぢさん》其《そ》の後《のち》はと。昌黎《しやうれい》、言《ものい》ふこと能《あた》はず、涙《なんだ》先《ま》づ下《くだ》る。韓湘《かんしやう》曰《いは》く、今《いま》、公《きみ》、花間《くわかん》の文字《もんじ》を知《し》れりや。昌黎《しやうれい》默然《もくねん》たり。時《とき》に後《おく》れたる從者《じゆうしや》辛《から》うじて到《いた》る。昌黎《しやうれい》顧《かへり》みて、詢《と》うて曰《いは》く、此《こ》の地《ち》何處《いづこ》ぞ。藍關《らんくわん》にて候《さふらふ》。さては、高《たか》きは秦嶺也《しんれいなり》。昌黎《しやうれい》嗟嘆《さたん》すること久《ひさし》うして曰《いは》く、吾《われ》今《いま》にして仙葩《せんぱ》を視《み》たり。汝《なんぢ》のために彼《か》の詩《し》を全《まつた》うせんと。韓文公《かんぶんこう》が詩集《ししふ》の
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