襟の処で、塗盆をくるりと廻す。
「飛んだ合せかがみだね、人死が出来て堪《たま》るものか。第一、芸妓屋《げいしゃや》の前へは、うっかり立てねえ。」
「なぜえ。」
「悪くすると敵《かたき》に出会《でっくわ》す。」と投首《なげくび》する。
「あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、芸妓《げいこ》ゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、仇《かたき》だすな。」
「違った! 芸者の方で、私が敵さ。」
「あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。」と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの気勢《けはい》にも暗い軒下を、からころ、からころ、駒下駄《こまげた》の音が、土間に浸込《しみこ》むように響いて来る。……と直ぐその足許《あしもと》を潜《くぐ》るように、按摩の笛が寂しく聞える。
 門附は屹《きっ》と見た。
「噂をすれば、芸妓《げいこ》はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。」
「ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、可厭《いや》に煩《うるさ》く笛を吹くない。」
 かたりと門《かど》の戸を外から開ける。
「ええ、吃驚《びっくり》すら。」
「今晩は、――饂飩六ツ急いでな。」と草履穿《ぞうりば》きの半纏着《はんてんぎ》、背中へ白く月を浴びて、赤い鼻をぬいと出す。
「へい。」と筒抜けの高調子で、亭主帳場へ棒に突立《つッた》ち、
「お方、そりゃ早うせぬかい。」
 女房は澄ましたもので、
「美しい跫音《あしおと》やな、どこの?」と聞く。
「こないだ山田の新町から住替えた、こんの島家の新妓《しんこ》じゃ。」と言いながら、鼻赤の若い衆は、覗《のぞ》いた顔を外に曲げる。
 と門附は、背後《うしろ》の壁へ胸を反らして、ちょっと伸上るようにして、戸に立つ男の肩越しに、皎《こう》とした月の廓《くるわ》の、細い通《とおり》を見透かした。
 駒下駄はちと音低く、まだ、からころと響いたのである。
「沢山《たんと》出なさるかな。」
「まあ、こんの饂飩のようには行かぬで。」
「その気で、すぐに届けますえ。」
「はい頼んます。」と、男は返る。
 亭主帳場から背後《うしろ》向きに、日和下駄《ひよりげた》を探って下り、がたりびしりと手当り強く、そこへ広蓋《ひろぶた》を出掛《だしか》ける。ははあ、夫婦二人のこの店、気の毒千万、御亭が出前持を兼ねると見えたり
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