。
「……とある、いかさまな。」
「床に活《い》けたは、白の小菊じゃ、一束《ひとたば》にして掴《つか》みざし、喝采《おお》。」と讃《ほ》める。
「いや、翁寂《おきなさ》びた事を言うわ。」
「それそれ、たったいま懲りると言うた口の下から、何んじゃ、それは。やあ、見やれ、其許《そこ》の袖口から、茶色の手の、もそもそとした奴《やつ》が、ぶらりと出たわ、揖斐川の獺《かわうそ》の。」
「ほい、」
と視《なが》めて、
「南無三宝《なむさんぼう》。」と慌《あわただ》しく引込《ひッこ》める。
「何んじゃそれは。」
「ははははは、拙者うまれつき粗忽《そこつ》にいたして、よくものを落す処から、内の婆《ばばあ》どのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右糸で繋《つな》いだものさね。袖から胸へ潜《くぐ》らして、ずいと引張《ひっぱ》って両手へ嵌《は》めるだ。何んと恐しかろう。捻平さん、かくまで身上《しんしょう》を思うてくれる婆どのに対しても、無駄な祝儀は出せませんな。ああ、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。」
「狸《たぬき》めが。」
と背を円くして横を向く。
「それ、年増が来る。秘すべし、秘すべし。」
で、手袋をたくし込む。
処へ女中が手を支《つ》いて、
「御支度をなさりますか。」
「いや、やっと、今|草鞋《わらじ》を解いたばかりだ。泊めてもらうから、支度はしません。」と真面目に言う。
色は浅黒いが容子《ようす》の可《い》い、その年増の女中が、これには妙な顔をして、
「へい、御飯は召あがりますか。」
「まず酒から飲みます。」
「あの、めしあがりますものは?」
「姉さん、ここは約束通り、焼蛤《やきはまぐり》が名物だの。」
七
「そのな、焼蛤は、今も町はずれの葦簀張《よしずばり》なんぞでいたします。やっぱり松毬《まつかさ》で焼きませぬと美味《おいし》うござりませんで、当家《うち》では蒸したのを差上げます、味淋《みりん》入れて味美《あじよ》う蒸します。」
「ははあ、栄螺《さざえ》の壺焼《つぼやき》といった形、大道店で遣りますな。……松並木を向うに見て、松毬のちょろちょろ火、蛤の煙がこの月夜に立とうなら、とんと竜宮の田楽《でんがく》で、乙姫様《おとひめさま》が洒落《しゃれ》に姉《あね》さんかぶりを遊ばそうという処、また一段の趣《おもむき》だろうが、わざとそれがために忍んでも出られまい
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