、といったような、承知したようなことを独言《ひとりごと》のようでなく、聞かせるようにいってる人で。母様も御存じで、あれは博士ぶりというのであるとおっしゃった。
けれども鰤《ぶり》ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といったら、まるで、鮟鱇《あんこう》に肖《に》ているので、私は蔭じゃあ鮟鱇博士とそういいますワ。この間も学校へ参観に来たことがある。その時も今|被《かむ》っている、高い帽子を持っていたが、何だってまたあんな度はずれの帽子を着たがるんだろう。
だって、目金を拭こうとして、蝙蝠傘を頤《おとがい》で押えて、うつむいたと思うと、ほら、ほら、帽子が傾いて、重量《おもみ》で沈み出して、見てるうちにすっぽり、赤い鼻の上へ被《かぶ》さるんだもの。目金をはずした上へ帽子がかぶさって、眼が見えなくなったんだから驚いた、顔中帽子、ただ口ばかりが、その口を赤くあけて、あわてて、顔をふりあげて帽子を揺りあげようとしたから蝙蝠傘がばったり落ちた。落《おっ》こちると勢《いきおい》よく三ツばかりくるくると舞った間に、鮟鱇博士は五ツばかりおまわりをして、手をのばすと、ひょいと横なぐれに風を受けて、斜めに飛んで、遥《はる》か川下の方へ憎らしく落着いた風でゆったりしてふわりと落ちると、たちまち矢のごとくに流れ出した。
博士は片手で目金を持って、片手を帽子にかけたまま、烈《はげ》しく、急に、ほとんど数える隙《ひま》がないほど靴のうらで虚空を踏んだ、橋ががたがたと動いて鳴った。
「母様《おっかさん》、母様、母様。」
と私は足ぶみした。
「あい。」としずかに、おいいなすったのが背後《うしろ》に聞える。
窓から見たまま振向きもしないで、急込《せきこ》んで、
「あらあら流れるよ。」
「鳥かい、獣《けだもの》かい。」と極めて平気でいらっしゃる。
「蝙蝠《こうもり》なの、傘《からかさ》なの、あら、もう見えなくなったい、ほら、ね、流れッちまいました。」
「蝙蝠ですと。」
「ああ、落ッことしたの、可哀相に。」
と思わず歎息をして呟《つぶや》いた。
母様は笑《えみ》を含んだお声でもって、
「廉《れん》や、それはね、雨が晴れるしらせなんだよ。」
この時猿が動いた。
九
一|廻《まわり》くるりと環《わ》にまわって、前足をついて、棒杭《ぼうぐい》の上へ乗って、お天気を見るのであろう、仰向《あおむ》いて空を見た。晴れるといまに行くよ。
母様《おっかさん》は嘘をおっしゃらない。
博士は頻《しきり》に指《ゆびさ》ししていたが、口が利けないらしかった。で、一散に駈《か》けて来て、黙って小屋の前を通ろうとする。
「おじさんおじさん。」
と厳しく呼んでやった。追懸けて、
「橋銭を置いていらっしゃい、おじさん。」
とそういった。
「何だ!」
一通《ひととおり》の声ではない。さっきから口が利けないで、あのふくれた腹に一杯固くなるほど詰め込み詰め込みしておいた声を、紙鉄砲ぶつようにはじきだしたものらしい。
で、赤い鼻をうつむけて、額越《ひたいごし》に睨《にら》みつけた。
「何か。」と今度は鷹揚《おうよう》である。
私は返事をしませんかった。それは驚いたわけではない、恐《こわ》かったわけではない。鮟鱇《あんこう》にしては少し顔がそぐわ[#「そぐわ」に傍点]ないから何にしよう、何に肖《に》ているだろう、この赤い鼻の高いのに、さきの方が少し垂れさがって、上唇におっかぶさってる工合といったらない、魚《うお》より獣よりむしろ鳥の嘴《はし》によく肖ている。雀か、山雀《やまがら》か、そうでもない。それでもないト考えて七面鳥に思いあたった時、なまぬるい音調で、
「馬鹿め。」
といいすてにして、沈んで来る帽子をゆりあげて行《ゆ》こうとする。
「あなた。」とおっかさんが屹《きっ》とした声でおっしゃって、お膝の上の糸|屑《くず》を、細い、白い、指のさきで二ツ三ツはじき落して、すっと出て窓の処へお立ちなすった。
「渡《わたし》をお置きなさらんではいけません。」
「え、え、え。」
といったがじれったそうに、
「俺《おれ》は何じゃが、うう、知らんのか。」
「誰です、あなたは。」と冷《ひやや》かで、私こんなのを聞くとすっきりする。眼のさきに見える気にくわないものに、水をぶっかけて、天窓《あたま》から洗っておやんなさるので、いつでもこうだ、極めていい。
鮟鱇は腹をぶくぶくさして、肩をゆすったが、衣兜《かくし》から名刺を出して、笊《ざる》のなかへまっすぐに恭《うやうや》しく置いて、
「こういうものじゃ、これじゃ、俺じゃ。」
といって肩書の処を指《ゆびさ》した、恐しくみじかい指で、黄金《きん》の指環の太いのをはめている。
手にも取らないで、口のなかに低声《こごえ》におよみ
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