々《さんざ》慰《なぐさ》んで、そら菓子をやるワ、蜜柑《みかん》を投げろ、餅《もち》をたべさすわって、皆《みんな》でどっさり猿に御馳走《ごちそう》をして、暗くなるとどやどやいっちまったんだ。で、じいさんをいたわってやったものは、ただの一|人《にん》もなかったといいます。
 あわれだとお思いなすって、母様がお銭《あし》を恵んで、肩掛《ショオル》を着せておやんなすったら、じいさん涙を落して拝んで喜びましたって、そうして、
(ああ、奥様、私《わたくし》は獣《けだもの》になりとうございます。あいら、皆《みんな》畜生で、この猿めが夥間《なかま》でござりましょう。それで、手前達の同類にものをくわせながら、人間一|疋《ぴき》の私《わたくし》には目を懸けぬのでござります。)とそういってあたりを睨《にら》んだ、恐らくこのじいさんなら分るであろう、いや、分るまでもない、人が獣《けだもの》であることをいわないでも知っていようと、そういって、母様がお聞かせなすった。
 うまいこと知ってるな、じいさん。じいさんと母様と私と三人だ。その時じいさんがそのまんまで控綱《ひかえづな》をそこン処《とこ》の棒杭《ぼうぐい》に縛りッ放しにして猿をうっちゃって行《ゆ》こうとしたので、供の女中が口を出して、どうするつもりだって聞いた。母様もまた傍《そば》からまあ棄児《すてご》にしては可哀相でないかッて、お聞きなすったら、じいさんにやにやと笑ったそうで、
(はい、いえ、大丈夫でござります。人間をこうやっといたら、餓《う》えも凍《こご》えもしようけれど、獣《けだもの》でござりますから今に長い目で御覧《ごろう》じまし、此奴《こいつ》はもう決してひもじい目に逢うことはござりませぬから。)
 とそういって、かさねがさね恩を謝して、分れてどこへか行っちまいましたッて。
 果して猿は餓えないでいる。もう今ではよっぽどの年紀《とし》であろう。すりゃ、猿のじいさんだ。道理で、功を経た、ものの分ったような、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をしているんだ。見える見える、雨の中にちょこなんと坐っているのが手に取るように窓から見えるワ。

       八

 朝晩|見馴《みな》れて珍しくもない猿だけれど、いまこんなこと考え出して、いろんなこと思って見ると、また殊にものなつかしい。あのおかしな顔早くいって見たいなと、そう思って、窓に手をついてのびあがって、ずっと肩まで出すと※[#「さんずい+散」、156−15]《しぶき》がかかって、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫《な》でた。
 その時仮橋ががたがたいって、川面《かわづら》の小糠雨《こぬかあめ》を掬《すく》うように吹き乱すと、流《ながれ》が黒くなって颯《さっ》と出た。といっしょに向岸から橋を渡って来る、洋服を着た男がある。
 橋板がまた、がッたりがッたりいって、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦《ぼたん》をはずして、胸を開けて、けばけばしゅう襟飾《えりかざり》を出した、でっぷり紳士で、胸が小さくッて、下腹《したっぱら》の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、それは寒いからだ。そして大跨《おおまた》に、その逞《たくまし》い靴を片足ずつ、やりちがえにあげちゃあ歩行《ある》いて来る。靴の裏の赤いのがぽっかり、ぽっかりと一ツずつこっちから見えるけれど、自分じゃあ、その爪《つま》さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は、臍《へそ》から下、膝から上は見たことがないのだとそういいます。あら! あら! 短服《チョッキ》に靴を穿《は》いたものが転がって来るぜと、思って、じっと見ていると、橋のまんなかあたりへ来て鼻目金《はなめがね》をはずした、※[#「さんずい+散」、157−10]がかかって曇ったと見える。
 で、衣兜《かくし》から手巾《ハンケチ》を出して、拭《ふ》きにかかったが、蝙蝠傘《こうもりがさ》を片手に持っていたから手を空けようとして咽喉《のど》と肩のあいだへ柄を挟んで、うつむいて、珠《たま》を拭《ぬぐ》いかけた。
 これは今までに幾|度《たび》も私見たことのある人で、何でも小児《こども》の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といって五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立って見るが、どこに因らず、場所は限らない。すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交《たちまじ》っていないということはなかった。
 見る時にいつも傍《はた》の人《もの》を誰かしらつかまえて、尻上りの、すました調子で、何かものをいっていなかったことはほとんど無い。それに人から聞いていたことはかつてないので、いつでも自分で聞かせている。が、聞くものがなければ独《ひとり》で、むむ、ふむ
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