はないのだけれど、猿の餓えることはありはしなかった。
 時々|悪戯《いたずら》をして、その紅雀の天窓《あたま》の毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ったり、かなりやを引掻《ひっか》いたりすることがあるので、あの猿松が居ては、うっかり可愛らしい小鳥を手放《てばなし》にして戸外《おもて》へ出してはおけない、誰か見張ってでもいないと、危険《けんのん》だからって、ちょいちょい縄を解いて放してやったことが幾度もあった。
 放すが疾《はや》いか、猿は方々を駈《かけ》ずり廻って勝手放題な道楽をする。夜中に月が明《あかる》い時、寺の門を叩いたこともあったそうだし、人の庖厨《くりや》へ忍び込んで、鍋《なべ》の大《おおき》いのと飯櫃《めしびつ》を大屋根へ持って、あがって、手掴《てづかみ》で食べたこともあったそうだし、ひらひらと青いなかから紅い切《きれ》のこぼれている、うつくしい鳥の袂を引張《ひっぱ》って、遥《はるか》に見える山を指《ゆびさ》して気絶さしたこともあったそうなり、私の覚えてからも一度誰かが、縄を切ってやったことがあった。その時はこの時雨榎《しぐれえのき》の枝の両股になってる処に、仰向《あおむけ》に寝転んでいて、烏の脛《あし》を捕《つかま》えた。それから畚《びく》に入れてある、あのしめじ蕈《たけ》が釣った、沙魚《はぜ》をぶちまけて、散々《さんざ》悪巫山戯《わるふざけ》をした挙句が、橋の詰《つめ》の浮世床のおじさんに掴《つか》まって、額の毛を真四角《まっしかく》に鋏《はさ》まれた、それで堪忍をして追放《おっぱな》したんだそうだのに、夜が明けて見ると、また平時《いつも》の処に棒杭にちゃんと結えてあッた。蛇籠の上の、石垣の中ほどで、上の堤防《どて》には柳の切株がある処。
 またはじまった、この通りに猿をつかまえてここへ縛っとくのは誰だろう誰だろうッて一《ひと》しきり騒いだのを私は知っている。
 で、この猿には出処がある。
 それは母様《おっかさん》が御存じで、私にお話しなすった。
 八九年前のこと、私がまだ母様のお腹《なか》ん中に小さくなっていた時分なんで、正月、春のはじめのことであった。
 今はただ広い世の中に母様と、やがて、私のものといったら、この番小屋と仮橋の他《ほか》にはないが、その時分はこの橋ほどのものは、邸の庭の中の一ツの眺望《ながめ》に過ぎないのであったそうで。今、市《まち》の人が春、夏、秋、冬、遊山に来る、桜山も、桃谷も、あの梅林も、菖蒲《あやめ》の池も皆《みんな》父様《おとっさん》ので、頬白だの、目白だの、山雀《やまがら》だのが、この窓から堤防《どて》の岸や、柳の下《もと》や、蛇籠の上に居るのが見える、その身体《からだ》の色ばかりがそれである、小鳥ではない、ほんとうの可愛らしい、うつくしいのがちょうどこんな工合に朱塗《しゅぬり》の欄干のついた二階の窓から見えたそうで。今日はまだお言いでないが、こういう雨の降って淋《さみ》しい時なぞは、その時分《ころ》のことをいつでもいってお聞かせだ。

       六

 今ではそんな楽しい、うつくしい、花園がないかわり、前に橋銭を受取る笊《ざる》の置いてある、この小さな窓から風がわりな猪だの、希代な蕈《きのこ》だの、不思議な猿だの、まだその他に人の顔をした鳥だの、獣だのが、いくらでも見えるから、ちっとは思出《おもいで》になるといっちゃあ、アノ笑顔をおしなので、私もそう思って見るせいか、人があるいて行《ゆ》く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のようでおもしろい。人の笑うのを見ると獣《けだもの》が大きな赤い口をあけたよと思っておもしろい。みいちゃんがものをいうと、おや小鳥が囀《さえず》るかとそう思っておかしいのだ。で、何でも、おもしろくッて、おかしくッて、吹出さずには居られない。
 だけれど今しがたも母様《おっかさん》がおいいの通り、こんないいことを知ってるのは、母様と私ばかりで、どうして、みいちゃんだの、吉公だの、それから学校の女の先生なんぞに教えたって分るものか。
 人に踏まれたり、蹴《け》られたり、後足で砂をかけられたり、苛《いじ》められて責《さいな》まれて、煮湯《にえゆ》を飲ませられて、砂を浴《あび》せられて、鞭《むち》うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉《のど》がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰《なぐさみ》にされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜《くや》しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、蓄生め、獣《けだもの》めと始終そう思って、五年も八年も経《た》たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではないんだそうで、お亡《なくな》んなすった、父様《おとっさん
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