の児心《こどもごころ》にも、アレ先生が嫌な顔をしたな、トこう思って取ったのは、まだモ少し種々《いろん》なことをいいあってから、それから後の事で。
はじめは先生も笑いながら、ま、あなたがそう思っているのなら、しばらくそうしておきましょう。けれども人間には智慧《ちえ》というものがあって、これには他《ほか》の鳥だの、獣《けだもの》だのという動物が企て及ばないということを、私が河岸に住まっているからって、例をあげておさとしであつた。
釣《つり》をする、網を打つ、鳥をさす、皆《みんな》人の智慧で、何も知らない、分らないから、つられて、刺されて、たべられてしまうのだトこういうことだった。そんなことは私聞かないで知っている、朝晩見ているもの。
橋を挟んで、川を遡《さかのぼ》ったり、流れたりして、流網《ながれあみ》をかけて魚《うお》を取るのが、川ン中に手拱《てあぐら》かいて、ぶるぶるふるえて突立《つッた》ってるうちは、顔のある人間だけれど、そらといって水に潜ると、逆《さかさ》になって、水潜《みずくぐり》をしいしい五分間ばかりも泳いでいる、足ばかりが見える。その足の恰好《かっこう》の悪さといったらない。うつくしい、金魚の泳いでる尾鰭《おひれ》の姿や、ぴらぴらと水銀色を輝かして跳ねてあがる鮎《あゆ》なんぞの立派さにはまるでくらべものになるのじゃあない。そうしてあんな、水浸《みずびたし》になって、大川の中から足を出してる、こんな人間がありますものか。で、人間だと思うとおかしいけれど、川ン中から足が生えたのだと、そう思って見ているとおもしろくッて、ちっとも嫌なことはないので、つまらない観世物《みせもの》を見に行《ゆ》くより、ずっとまし、なのだって、母様がそうお謂《い》いだから、私はそう思っていますもの。
それから、釣をしてますのは、ね、先生、とまたその時先生にそういいました。あれは人間じゃあない、蕈《きのこ》なんで、御覧なさい。片手|懐《ふところ》って、ぬうと立って、笠を被《かぶ》ってる姿というものは、堤防《どて》の上に一|本《ぽん》占治茸《しめじ》が生えたのに違いません。
夕方になって、ひょろ長い影がさして、薄暗い鼠色の立姿にでもなると、ますます占治茸で、ずっと遠い遠い処まで一ならびに、十人も三十人も、小さいのだの、大きいのだの、短いのだの、長いのだの、一番橋手前のを頭《かしら
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