博士《はかせ》は片手《かたて》で眼鏡《めがね》を持《も》つて、片手《かたて》を帽子《ばうし》にかけたまゝ烈《はげ》しく、急《きふ》に、殆《ほと》んど数《かぞ》へる遑《ひま》がないほど靴《くつ》のうらで虚空《こくう》を踏《ふ》むだ、橋《はし》ががた/\と動《うご》いて鳴《な》つた。
「母様《おつかさん》、母様《おつかさん》、母様《おつかさん》」
と私《わたし》は足《あし》ぶみをした。
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後《うしろ》に聞《き》こえる。
窓《まど》から見《み》たまゝ振向《ふりむ》きもしないで、急込《せきこ》んで、
「あら/\流《なが》れるよ。」
「鳥《とり》かい、獣《けだもの》かい。」と極《きは》めて平気《へいき》でいらつしやる。
「蝙蝠《かうもり》なの、傘《からかさ》なの、あら、もう見《み》えなくなつたい、ほら、ね、流《なが》れツちまひました。」
「蝙蝠《かうもり》ですと。」
「あゝ、落《お》ツことしたの、可哀想《かあいさう》に。」
と思《おも》はず嘆息《たんそく》をして呟《つぶや》いた。
母様《おつかさん》は笑《ゑみ》を含《ふく》むだお声《こゑ》でもつて、
「廉《れん》や、それはね、雨《あめ》が晴《は》れるしらせなんだよ。」
此時《このとき》猿《さる》が動《うご》いた。

     第九

一廻《ひとまはり》くるりと環《わ》にまはつて前足《まへあし》をついて、棒杭《ばうぐひ》の上《うへ》へ乗《の》つて、お天気《てんき》を見《み》るのであらう、仰向《あをむ》いて空《そら》を見《み》た。晴《は》れるといまに行《ゆ》くよ。
母様《おつかさん》は嘘《うそ》をおつしやらない。
博士《はかせ》は頻《しきり》に指《ゆびさ》しをして居《ゐ》たが、口《くち》[#「くち」は底本では「くゐ」]が利《き》けないらしかつた、で、一散《いつさん》に駆《か》けて、来《き》て黙《だま》つて小屋《こや》の前《まへ》を通《とほ》らうとする。
「おぢさん/\。」
と厳《きび》しく呼《よ》んでやつた。追懸《おひか》けて、
「橋銭《はしせん》を置《お》いて去《い》らつしやい、おぢさん。」
とさういつた。
「何《なん》だ!」
一通《ひとゝほり》の声《こゑ》ではない、さつきから口《くち》が利《き》けないで、あのふくれた腹《はら》に一杯《いつぱい》固《かた》くなるほど詰《つ》め込《こ》み/\して置《お》いた声《こゑ》を、紙鉄砲《かみでつぱう》ぶつやうにはぢきだしたものらしい。
で、赤《あか》い鼻《はな》をうつむけて、額越《ひたひごし》に睨《にら》みつけた。
「何《なに》か」と今度《こんど》は応揚《おうやう》[#「応揚」はママ]である。
私《わたし》は返事《へんじ》をしませんかつた。それは驚《おどろ》いたわけではない、恐《こは》かつたわけではない。鮟鱇《あんかう》にしては少《すこ》し顔《かほ》がそぐは[#「そぐは」に傍点]ないから何《なに》にしやう、何《なに》に肖《に》て居《ゐ》るだらう、この赤《あか》い鼻《はな》の高《たか》いのに、さきの方《はう》が少《すこ》し垂《た》れさがつて、上唇《うはくちびる》におつかぶさつてる工合《ぐあい》といつたらない、魚《うを》より獣《けもの》より寧《むし》ろ鳥《とり》の嘴《はし》によく肖《に》て居《ゐ》る、雀《すゞめ》か、山雀《やまがら》か、さうでもない。それでもないト考《かんが》えて七面鳥《しちめんちやう》に思《おも》ひあたつた時《とき》、なまぬるい音調《おんちやう》で、
「馬鹿《ばか》め。」
といひすてにして沈《しづ》んで来《く》る帽子《ばうし》をゆりあげて行《ゆ》かうとする。
「あなた。」とおつかさんが屹《きつ》とした声《こゑ》でおつしやつて、お膝《ひざ》の上《うへ》の糸屑《いとくづ》を細《ほそ》い、白《しろ》い、指《ゆび》のさきで二《ふた》ツ三《み》ツはじき落《おと》して、すつと出《で》て窓《まど》の処《ところ》へお立《た》ちなすつた。
「渡《わたし》をお置《お》きなさらんではいけません。」
「え、え、え。」
といつたがぢれつたさうに、
「僕《ぼく》は何《なん》じやが、うゝ知《し》らんのか。」
「誰《だれ》です、あなたは。」と冷《ひやゝか》で。私《わたし》こんなのをきくとすつきりする、眼《め》のさきに見《み》える気《き》にくわ[#「くわ」に「ママ」の注記]ないものに、水《みづ》をぶつかけて、天窓《あたま》から洗《あら》つておやんなさるので、いつでもかうだ、極《きは》めていゝ。
鮟鱇《あんかう》は腹《はら》をぶく/\さして、肩《かた》をゆすつたが、衣兜《かくし》から名刺《めいし》を出《だ》して、笊《ざる》のなかへまつすぐに恭《うやうや》しく置《お》いて、
「かういふものじや、これじや、僕《ぼく》じや。」
といつて肩
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