》ぬけにはずんでふくれた、脚《あし》の短《みぢか》い、靴《くつ》の大《おほ》きな、帽子《ばうし》の高《たか》い、顔《かほ》の長《なが》い、鼻《はな》の赤《あか》い、其《それ》は寒《さむ》いからだ。そして大跨《おほまた》に、其《その》逞《たくまし》い靴《くつ》を片足《かたあし》づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行《ある》いて来《く》る、靴《くつ》の裏《うら》の赤《あか》いのがぽつかり、ぽつかりと一《ひと》ツづゝ此方《こつち》から見《み》えるけれど、自分《じぶん》じやあ、其《その》爪《つま》さきも分《わか》りはしまい。何《なん》でもあんなに腹《はら》のふくれた人《ひと》は臍《へそ》から下《した》、膝《ひざ》から上《うへ》は見《み》たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服《チツヨツキ》に靴《くつ》を穿《は》いたものが転《ころ》がつて来《く》るぜと、思《おも》つて、じつと見《み》て居《ゐ》ると、橋《はし》のまんなかあたりへ来《き》て鼻眼鏡《はなめがね》をはづした、※[#「さんずい+散」、53−15]《しぶき》がかゝつて曇《くも》つたと見《み》える。
で、衣兜《かくし》から半拭《はんかち》を出《だ》して、拭《ふ》きにかゝつたが、蝙蝠傘《かうもりがさ》を片手《かたて》に持《も》つて居《ゐ》たから手《て》を空《あ》けやうとして咽喉《のど》と肩《かた》のあひだへ柄《え》を挟《はさ》んで、うつむいて、珠《たま》を拭《ぬぐ》ひかけた。
これは今《いま》までに幾度《いくたび》も私《わたし》見《み》たことのある人《ひと》で、何《なん》でも小児《こども》の時《とき》は物見高《ものみだか》いから、そら、婆《ばあ》さんが転《ころ》んだ、花《はな》が咲《さ》いた、といつて五六人|人《ひと》だかりのすることが眼《め》の及《およ》ぶ処《ところ》にあれば、必《かなら》ず立《た》つて見《み》るが何処《どこ》に因《よ》らずで場所《ばしよ》は限《かぎ》らない、すべて五十人|以上《いじやう》の人《ひと》が集会《しふくわい》したなかには必《かなら》ずこの紳士《しんし》の立交《たちまじ》つて居《ゐ》ないといふことはなかつた。
見《み》る時《とき》にいつも傍《はた》の人《もの》を誰《たれ》か知《し》らつかまへて、尻上《しりあが》りの、すました調子《てうし》で、何《なに》かものをいつて居《ゐ》なかつたことは殆《ほと》んど無《な》い、それに人《ひと》から聞《き》いて居《ゐ》たことは曾《かつ》てないので、いつでも自分《じぶん》で聞《き》かせて居《ゐ》る、が、聞《き》くものがなければ独《ひとり》で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知《しようち》したやうなことを独言《ひとりごと》のやうでなく、聞《き》かせるやうにいつてる人《ひと》で、母様《おつかさん》も御存《ごぞん》じで、彼《あれ》は博士《はかせ》ぶりといふのであるとおつしやつた。
けれども鰤《ぶり》ではたしかにない、あの腹《はら》のふくれた様子《やうす》といつたら、宛然《まるで》、鮟鱇《あんかう》に肖《に》て居《ゐ》るので、私《わたし》は蔭《かげ》じやあ鮟鱇博士《あんかうはかせ》とさういひますワ。此間《このあひだ》も学校《がくかう》へ参観《さんくわん》に来《き》たことがある。其時《そのとき》も今《いま》被《かむ》つて居《ゐ》る、高《たか》い帽子《ばうし》を持《も》つて居《ゐ》たが、何《なん》だつてまたあんな度《ど》はづれの帽子《ばうし》を着《き》たがるんだらう。
だつて、眼鏡《めがね》を拭《ふ》かうとして、蝙蝠傘《かうもりがさ》を頤《をとがひ》で押《おさ》へて、うつむいたと思《おも》ふと、ほら/\、帽子《ばうし》が傾《かたむ》いて、重量《おもみ》で沈《しづ》み出《だ》して、見《み》てるうちにすつぼり、赤《あか》い鼻《はな》の上《うへ》へ被《かぶ》さるんだもの。眼鏡《めがね》をはづした上《うへ》で帽子《ばうし》がかぶさつて、眼《め》が見《み》えなくなつたんだから驚《おどろ》いた、顔中《かほぢう》帽子《ばうし》、唯《たゞ》口《くち》ばかりが、其《その》口《くち》を赤《あか》くあけて、あはてゝ、顔《かほ》をふりあげて、帽子《ばうし》を揺《ゆ》りあげやうとしたから蝙蝠傘《かうもりがさ》がばツたり落《お》ちた。落《おつ》こちると勢《いきほひ》よく三《みつ》ツばかりくる/\とまつた間《あひだ》に、鮟鱇博士《あんかうはかせ》は五《いつ》ツばかりおまはりをして、手《て》をのばすと、ひよいと横《よこ》なぐれに風《かぜ》を受《う》けて、斜《なゝ》めに飛《と》んで、遙《はる》か川下《かはしも》の方《はう》へ憎《にく》らしく落着《おちつ》いた風《ふう》でゆつたりしてふわりと落《お》ちるト忽《たちま》ち矢《や》の如《ごと》くに流《なが》れ出《だ》した。

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