とき》に渡《わた》つたからツて、少《すこ》し揺《ゆ》れはしやうけれど、折《を》れて落《お》つるやうな憂慮《きづかひ》はないのであつた。
ちやうど市《まち》の場末《ばすゑ》に住《す》むでる日傭取《ひようとり》、土方《どかた》、人足《にんそく》、それから、三味線《さみせん》を弾《ひ》いたり、太鼓《たいこ》を鳴《な》らして飴《あめ》を売《う》つたりする者《もの》、越後獅子《ゑちごじゝ》やら、猿廻《さるまはし》やら、附木《つけぎ》を売《う》る者《もの》だの、唄《うた》を謡《うた》ふものだの、元結《もつとゐ》よりだの、早附木《はやつけぎ》の箱《はこ》を内職《ないしよく》にするものなんぞが、目貫《めぬき》の市《まち》へ出《で》て行《ゆ》く往帰《ゆきかへ》りには、是非《ぜひ》母様《おつかさん》の橋《はし》を通《とほ》らなければならないので、百人と二百人づゝ朝晩《あさばん》賑《にぎや》な[#「賑《にぎや》な」はママ]人通《ひとどほ》りがある。
それからまた向《むか》ふから渡《わた》つて来《き》てこの橋《はし》を越《こ》して場末《ばすゑ》の穢《きたな》い町《まち》を通《とほ》り過《す》ぎると、野原《のはら》へ出《で》る。そこン処《とこ》は梅林《ばいりん》で上《うへ》の山《やま》が桜《さくら》の名所《めいしよ》で、其《その》下《した》に桃谷《もゝたに》といふのがあつて、谷間《たにあひ》の小流《こながれ》には、菖浦《あやめ》、燕子花《かきつばた》が一杯《いつぱい》咲《さ》く。頬白《ほゝじろ》、山雀《やまがら》、雲雀《ひばり》などが、ばら/\になつて唄《うた》つて居《ゐ》るから、綺麗《きれい》な着物《きもの》を着《き》た問屋《とひや》の女《むすめ》だの、金満家《かねもち》の隠居《いんきよ》だの、瓢《ひさご》を腰《こし》へ提《さ》げたり、花《はな》の枝《えだ》をかついだりして千鳥足《ちどりあし》で通《とほ》るのがある、それは春《はる》のことで。夏《なつ》になると納涼《すずみ》だといつて人《ひと》が出《で》る、秋《あき》は茸狩《たけがり》に出懸《でか》けて来《く》る、遊山《ゆさん》をするのが、皆《みんな》内《うち》の橋《はし》を通《とほ》らねばならない。
この間《あひだ》も誰《たれ》かと二三|人《にん》づれで、学校《がくかう》のお師匠《しゝやう》さんが、内《うち》の前《まへ》を通《とほ》つて、私《わたし》の顔《かほ》を見《み》たから、丁寧《ていねい》にお辞義《じぎ》[#「義」に「ママ」の注記]をすると、おや、といつたきりで、橋銭《はしせん》を置《お》かないで行《い》つてしまつた。
「ねえ、母様《おつかさん》、先生《せんせい》もづるい[#「づるい」はママ]人《ひと》なんかねえ。」
と窓《まど》から顔《かほ》を引込《ひつこ》ませた。

     第二

「お心易立《こゝろやすだて》なんでしやう、でもづるい[#「づるい」はママ]んだよ。余程《よつぽど》さういはうかと思《おも》つたけれど、先生《せんせい》だといふから、また、そんなことで悪《わる》く取《と》つて、お前《まへ》が憎《にく》まれでもしちやなるまいと思《おも》つて黙《だま》つて居《ゐ》ました。」
といひ/\母様《おつかさん》は縫《ぬ》つて居《ゐ》らつしやる。
お膝《ひざ》の前《まへ》に落《お》ちて居《ゐ》た、一《ひと》ツの方《はう》の手袋《てぶくろ》の格恰《かくかう》が出来《でき》たのを、私《わたし》は手《て》に取《と》つて、掌《てのひら》にあてゝ見《み》たり、甲《かふ》の上《うへ》へ乗《の》ツけて見《み》たり、
「母様《おつかさん》、先生《せんせい》はね、それでなくつても僕《ぼく》のことを可愛《かあい》がつちやあ下《くだ》さらないの。」
と訴《うつた》へるやうにいひました。
かういつた時《とき》に、学校《がくかう》で何《なん》だか知《し》らないけれど、私《わたし》がものをいつても、快《こゝろよ》く返事《へんじ》をおしでなかつたり、拗《す》ねたやうな、けんどんなやうな、おもしろくない言《ことば》をおかけであるのを、いつでも情《なさけな》いと思《おも》ひ/\して居《ゐ》たのを考《かんが》へ出《だ》して、少《すこ》し欝《ふさ》いで来《き》て俯向《うつむ》いた。
「何故《なぜ》さ。」
何《なに》、さういふ様子《やうす》の見《み》えるのは、つひ四五日前《しごにちまへ》からで、其前《そのさき》には些少《ちつと》もこんなことはありはしなかつた。帰《かへ》つて母様《おつかさん》にさういつて、何故《なぜ》だか聞《き》いて見《み》やうと思《おも》つたんだ。
けれど、番小屋《ばんごや》へ入《はい》ると直《すぐ》飛出《とびだ》して遊《あそ》んであるいて、帰《かへ》ると、御飯《ごはん》を食《た》べて、そしちやあ横《よこ》になつ
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング