は果敢《はか》なくおなりなすったのよ。私ゃもうその時は……」
とお貞は声をうるましたり。
五
「それからというものは[#「いうものは」は底本では「いふものは」]、私はまるで気ぬけがしたようで、内の中でも一番薄暗い、三畳の室《ま》へ入っちゃあ、どういうものだかね、隅の方へちゃんと坐って、壁の方を向いて、しくしく泣くのが癖になってね、長い間治らなかったの。そうこうするうち児《こ》が出来たわ。
可笑《おかし》いじゃないかねえ。」
お貞は苦々しげに打笑みたり。
「妙なものがころがり出してしまってさ、翌年《あくるとし》の十月のことなのよ。」
と言懸けてお貞はもの案じ顔に見えたりしが、
「そうそう、芳ちゃん、まだその前《さき》にね、旦那がさ、東京へ行って三月めから、毎月々々一枚ずつ、月の朔日《ついたち》にはきっと写真を写してね、欠かさず私に送って寄来《よこ》すんだよ。まあ、御深切様じゃないかね。そのたんびに手紙がついてて、(いや今月は少し痩《や》せた)の、(今度は少し眼が悪い)の、(どうだ先月と合わしてみい、ちっとあ肥《ふと》って見えよう)なんて、言書《ことばがき》が着いてたわ。
私ゃお祖父さんのことばかり考えて、別に何にも良人《さき》の事は思わないもんだから、ちょいと見たばかりで、ずんずん葛籠《つづら》の裡《なか》へしまいこんで打棄《うっちゃ》っといたわ。すると、いつのことだッけか、何かの拍子、お友達にめっかってね、
(まあ! お貞さん、旦那様は飛んだ御深切なお方だねえ。)サ酷《ひど》く擽《くすぐ》ったもんだろうじゃあないかえ。
それもそのはずだね。写真の裏に一葉《ひとつ》々々、お墨附があってよ。年、月、日、西岡時彦|写之《これをうつす》、お貞殿へさ。
私もつい口惜《くやし》紛れに、(写真の儀はお見合せ下されたく、あまりあまり人につけても)ッさ。何があまりあまりだろう、可笑《おかし》いね。そういってやると、それッきりおやめになったが、十四五枚もあった写真を、また見られちゃあ困ると思ったがね、人にも遣《や》られず、焼くことも出来ずさ、仕方がないから、一|纏《まと》めにして、お持仏様の奥ン処へ容《い》れておいてよ。毎日拝んだから可いではないかね。」
先刻《さき》に干したる湯呑の中へ、吸子の茶の濃くなれるを、細く長くうつしこみて、ぐっと一口飲みたるが、あまり苦かりしにや湯をさしたり。
少年はただ黙して聞きぬ。
お貞は口をうるおして、
「児《こ》が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小児《こども》にばかり気を取られて、他《ほか》に何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五歳《いつつ》六歳《むッつ》の時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。
すると、その夏の初《はじめ》の頃、戸外《おもて》にがらがらと腕車《くるま》が留《とま》って、入って来た男があったの。沓脱《くつぬぎ》に突立《つった》ってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、
(誰方《どなた》、)といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほど瘠《や》せていて、ま、それも可いが妙な恰好《かっこう》さ。
大きな眼鏡のね、黒磨《くろずり》でもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押着《おッつ》けてさ、おまけに鬚《ひげ》を生やしてるじゃあないか。それで高帽子《たかじゃっぽ》で、羽織がというと、縞《しま》の透綾《すきや》を黒に染返したのに、五三の何か縫着紋《ぬいつけもん》で、少し丈不足《たけたらず》というのを着て、お召が、阿波縮《あわちぢみ》で、浅葱《あさぎ》の唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を〆《し》めてたわ。
どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞爾《にっこり》したよ、これは帰って[#「帰って」は底本では「帰つて」]来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可笑《おかし》かったせいなのよ。
病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとは快《よ》くならない。一月も二月も、そうさ[#「そうさ」は底本では「さうさ」]、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、
(お貞、そんなに吾《おれ》を治したいか)ッて、私の顔を瞻《みつ》めるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実《ほんとう》の処をいったのよ
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