ないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」
といと厳《おごそ》かに命じける。お貞は決する色ありて、
「貴下《あなた》、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」
声ふるわして屹《きっ》と問いぬ。
「うむ、ある。」
と確乎《かっこ》として、謂う時病者は傲然《ごうぜん》たりき。
お貞はかの女が時々神経に異変を来《きた》して、頭《かしら》あたかも破《わ》るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面|蒼《あお》くなりながら、身火《しんか》烈々|身体《からだ》を焼きて、恍《こう》として、茫《ぼう》として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼《まなこ》にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰《みつ》むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一《おなじ》容体《ありさま》にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻《みまも》りしが、俄然《がぜん》、崩折《くずお》れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋《すが》りて、血を吐く一声夜陰を貫き、
「殺します、旦那、私はもう……」
とわッとばかりに泣出しざま、擲《なげう》たれたらんかのごとく、障子とともに僵《たお》れ出でて、衝《つ》と行《ゆ》き、勝手|許《もと》の暗《やみ》を探りて、渠《かれ》は得物を手にしたり。
時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被《かつ》ぎ、仰向《あおむけ》に寝て天井を眺めたるまま、此方《こなた》を見向かんともなさずして、いとも静《しずか》に、冷《ひやや》かに、着物の袖も動かさざりき。
諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過《よぎ》りたまわん時、好事《こうず》の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏《ばけいちょう》の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥《しゅうじょく》の後《のち》に御注意あれ。
間《ま》広き旅店の客少なく、夜半の鐘声|森《しん》として、凄風《せいふう》一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然《きょうぜん》たる足音あり寂寞《せきばく》を破り近着き来《きた》りて、黒きもの颯《さ》とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗《うかが》うあらむ。その時声を立てら
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