をしたもんだから、ついぞ荒い言《こと》をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
(不孝者!)といって、握拳《にぎりこぶし》で突然《いきなり》環をぶとうとしたから、私も屹《きっ》となって、片膝立てて、
(何をするんです!)と摺寄《すりよ》ったわ。その時の形相の凄《すさま》じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎《いいにく》いことだけれど、真実《ほんとう》にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵《かたき》だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児《こ》だったら。」
 お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
「旦那はそのまま崩折《くずお》れて、男泣きに泣いたわね。
 私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所《とおく》なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪《こた》えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
 だもんだからどこも良《い》い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」
 と一人冷かに笑うたり。

       十

「何もそんなに気を揉《も》まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸《かか》るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
 そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊《よあそび》はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来《このかた》、一晩も宅《うち》を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何《なん》しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌《あいきょう》があるよ。荒い口をきいたことなし、す
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