遠山の眉余り濃からず。生際《はえぎわ》少しあがりて、髪はやや薄《うす》けれども、色白くして口許《くちもと》緊《しま》り、上気性《のぼせしょう》と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼《まぶた》の重げに見ゆるが、泣《なき》はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵《こたつ》に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中《うち》曇を帯びて、見るに俤《おもかげ》晴やかならず、暗雲一帯|眉宇《びう》をかすめて、渠《かれ》は何をか物思える。
根上りに結いたる円髷《まるまげ》の鬢《びん》頬に乱れて、下〆《したじめ》ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮《こんちぢみ》の浴衣を纏《まと》いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
教育のある婦人《おんな》にあらねど、ものの本など好みて読めば、文《ふみ》書く術《すべ》も拙《つたな》からで、はた裁縫の業《わざ》に長《た》けたり。
他の遊芸は知らずと謂う、三味線《さみせん》はその好きの道にて、時ありては爪弾《つめびき》の、忍ぶ恋路の音《ね》を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾《ひ》くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹《ほそざお》の塵《ちり》を払いて、慎ましげに音〆《ねじめ》をなすのみ。
お貞は今思出したらむがごとく煙管《きせる》を取りて、覚束無《おぼつかな》げに一服吸いつ。
渠《かれ》は煙草《たばこ》を嗜《たしな》むにあらねど、憂《うき》を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽《む》せて、落すがごとく煙管を棄《す》て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸《たぎ》れるままその冷《さ》むるを待てり。
時に履物の音高く家《うち》に入来《いりく》るものあるにぞ、お貞は少し慌《あわた》だしく、急に其方《そなた》を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭《ぬれてぬぐい》をぶら提げつつ、衝《つ》と入りたる少年あり。
お貞は見るより、
「芳さんかえ。」
「奥様《おくさん》、ただいま。」
と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波《ながしめ》もて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
と顧みたり。
「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様《ばあさん》はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」
「そうかい。
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