女《なになにしんにょ》、そこで、これへ、媽々《かかあ》の戒名を、と父親《おやじ》が燈籠を出した時。
(母様《おっかさん》のは、)と傍《そば》に畏《かしこま》った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後《うしろ》から私の手を柔《やわら》かく筆を持添えて……
おっかさん、と仮名《かな》で書かして下さる時、この襟《えり》へ、」
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙《なみだ》を落しておくんなすった。
父親《おやじ》は墨《すみ》をすりながら、伸上《のびあが》って、とその仮名を読んで……
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽《かすか》に、おっかさんと響いた。
ヒイと、堪《こら》えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
突俯《つッぷ》したお君が、胸の苦しさに悶《もだ》えたのである。
その手を取って、
「それだもの、忘《わ》、忘《わす》れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
ね、だからそれが記念《かたみ》なんだ。お君さん、母様《おっかさん》の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合《うけあ》う、きっと見える。可哀相《かわいそう》に、名、名も知らんのか。」
と云って、ぶるぶると震《ふる》える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚《おどろ》き、膝を突《つッ》かけ、背《せな》を抱《いだ》くと、答えがないので、慌《あわ》てて、引起して、横抱きに膝へ抱《いだ》いた。
慌《あわただ》しい声に力を籠《こ》めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと抱《だき》しめて、
「母様《おっかさん》の顔は、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、326−15]《ねえ》さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
とじっと見詰《みつ》めると、恍惚《うっとり》した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉《まゆ》のあたりを、ちらちらと蝶《ちょう》のように、紫の影が行交《ゆきか》うと思うと、菫《すみれ》の薫《かおり》がはっとして、やがて縋《すが》った手に力が入った。
お君の寂しく莞爾《にっこり》した時、寂寞《じゃくまく》とした位牌堂の中で、カタリと音。
目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳《とばり》のような色になった。が、やや艶《つや》やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。
遠くで梟が啼《な》いた。
謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭《かぶり》をふって、斉《ひと》しく莞爾《にっこり》した。
その時何となく机の向が、かわった。
襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室《いま》は閉《しま》ったままで、ただほのかに見える散《こぼ》れ松葉のその模様が、懐《なつか》しい百人一首の表紙に見えた。
[#地から1字上げ](明治四十年一月)
底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房
1991(平成3年)10月20日初版発行
1995(平成7年)8月15日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
入力:牡蠣右衛門
校正:門田 裕志
2001年10月19日公開
2005年11月25日修正
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