と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後《のち》に、御母様《おっかさん》がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違《おもいちが》いであったろう。
 框《かまち》がすぐに縁《えん》で、取附《とッつ》きがその位牌堂。これには天井《てんじょう》から大きな白の戸帳《とばり》が垂《た》れている。その色だけ仄《ほのか》に明くって、板敷《いたじき》は暗かった。
 左に六|畳《じょう》ばかりの休息所がある。向うが破襖《やれぶすま》で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居《い》る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸《いど》もある。
 が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。
 前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸|漏《も》る明《あかり》を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。
 横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷《こおり》を削《けず》ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯《おび》えようと、それは閉めたままでおいたのである。

     十

 その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻《ねじ》るようにして懐《ふところ》がみで足を拭《ぬぐ》って、下駄《げた》を、謙造のも一所に拭《ふ》いて、それから穿直《はきなお》して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢《ちょうずばち》で手を洗って、これは手巾《ハンケチ》で拭《ぬぐ》って、裾をおろして、一つ揺直《ゆすりなお》して、下褄《したづま》を掻込《かいこ》んで、本堂へ立向って、ト頭《つむり》を下げたところ。
「こちらへお入り、」
 と、謙造が休息所で声をかける。
 お君がそっと歩行《ある》いて行くと、六畳の真中に腕組《うでぐみ》をして坐《すわ》っていたが、
「まあお坐んなさい。」
 と傍《かたわら》へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子《ひょうし》に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手《よこって》のその窓に並《なら》んだ二段に釣《つ》った棚《たな》があって、火鉢《ひばち》燭台《しょくだい》の類、新しい卒堵婆《そとば》が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛《かじ》った穴から、白い切《きれ》のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠《ふるつづら》が一折。その中の棚に斜《はす》っかけに乗せてあった経机《きょうづくえ》ではない小机の、脚を抉《えぐ》って満月を透《すか》したはいいが、雲のかかったように虫蝕《むしくい》のあとのある、塗《ぬ》ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……
「有った、有った。」
 と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後《うしろ》に、端然《きちん》と坐った、お君のふっくりした衣紋《えもん》つきの帯の処へ、中腰になって舁据《かきす》えて置直すと、正面を避《さ》けて、お君と互違《たがいちが》いに肩を並べたように、どっかと坐って、
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方《くれがた》にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。
 薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻《まぼろし》だったのか、と大抵《たいてい》気を揉《も》んだ事じゃない。
 お君さん、」
 と云って、無言ながら、懐《なつか》しげなその美い、そして恍惚《うっとり》となっている顔を見て、
「その机だ。お君さん、あなたの母様《おっかさん》の記念《かたみ》というのは、……
 こういうわけだ。また恐《こわ》がっちゃいけないよ。母様《おっかさん》の事なんだから。
 いいかい。
 一昨日《おととい》ね。私の両親《ふたおや》の墓は、ついこの右の方の丘《おか》の松蔭《まつかげ》にあるんだが、そこへ参詣《おまいり》をして、墳墓《はか》の土に、薫《かおり》の良《い》い、菫《すみれ》の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本《みもと》ばかり摘《つ》んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親《おやじ》の居《い》る時分、連立って阿母《おふくろ》の墓参《はかまいり》をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様《そしさま》の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記《そら》でやるくらい話がおもしろい爺様《じいさま》だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯《ちょうちん》を借りて帰ることなんぞあった馴染《なじみ》だから、ここへ寄った。
 いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中《あいだじゅう》の湿気払《し
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