「カチリ?……どうしたい。」
「お簪《かんざし》が抜けて落ちました音で。」
「簪が?……ちょっと。」
 名は呼びかねつつ注意する。
「いいえ。」
 婀娜《あで》な夫人が言った。
「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。……上方《かみがた》のお客が宵寐《よいね》が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の旦《だん》が、ちょっと異《おつ》な寸法のわかい御婦人と御楽《おたのし》み、で、大《おおき》いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります……貴女《あなた》のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。
 上方の御老体が、それなり開けると出会頭《であいがしら》になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の襖《ふすま》は暗し、また雪と申すのが御存じの通り、当館切っての北国《ほっこく》で、廊下も、それは怪《け》しからず陰気だそうでござりますので、わしどもでも手さぐりでヒヤリとします。暗い処を不意に開けては、若いお娘ご、吃驚《びっくり》もなさろうと、ふと遠慮して立たっせえた。……お通りすがりが、何とも申されぬいい匂で、その香をたよりに、いきなり、横合の暗がりから、お白い頸《えり》へ噛《かじ》りついたものがござります。」……
「…………」
「声はお立てになりません、が、お桂様が、少し屈《かが》みなりに、颯《さっ》と島田を横にお振りなすった、その時カチリと音がしました。思わず、えへんと咳《せき》をして、御老体が覗《のぞ》いてござった障子の破れめへそのまま手を掛けて、お開けなさると、するりと向うへ、お桂様は庭の池の橋がかりの上を、両袖を合せて、小刻みにおいでなさる。蝙蝠《こうもり》だか、蜘蛛だか、奴《やっこ》は、それなり、その角の片側の寝具部屋《やぐべや》へ、ごそりとも言わず消えたげにござりますがな。
 確《たしか》に、カチリと、簪《かんざし》の落ちた音。お拾いなすった間もなかったがと、御老体はお目敏《めざと》い。……翌朝、気をつけて御覧なさると、欄干が取附けてござります、巌組《いわぐみ》へ、池から水の落口の、きれいな小砂利の上に、巌の根に留まって、きらきら水が光って、もし、小雨のようにさします朝晴の日の影に、あたりの小砂利は五色《ごしき》に見えます。これは、その簪の橘《たちばな》が蘂《しべ》に抱きました、真珠の威勢かにも申しますな。水は浅し、拾うのに仔細《しさい》なかったでございますれども、御老体が飛んだ苦労をなさいましたのは……夜具部屋から、膠々《にちゃにちゃ》粘々を筋を引いて、時なりませぬ蛞蝓《なめくじ》の大きなのが一匹……ずるずるとあとを輪取って、舐廻《なめまわ》って、ちょうど簪の見当の欄干の裏へ這込《はいこ》んだのが、屈んだ鼻のさきに見えました。――これには難儀をなすったげで。はい、もっとも、簪がお娘ごのお髪《ぐし》へ戻りましたについては、御老体から、大島屋のお上さんに、その辺のな、もし、従って、小按摩もそれとなくお遠ざけになったに相違ござりません、さ、さ、この上方の御仁《ごじん》でござりますよ。――あくる晩の夜ふけに、提灯を持った小按摩を見て、お煩いなさったのは。――御老体にして見れば、そこらの行《ゆき》がかり上、死際《しにぎわ》のめくらが、面当《つらあて》に形を顕《あら》わしたように思召しましたろうし、立入って申せば、小一の方でも、そのつもりでござりましたかも分りません。勿論、当のお桂様は、何事も御存じはないのでござります。第一、簪のカチリも、咳のえへんも、その御老体が、その後三度めにか四度めにか湯治にござって、(もう、あのお娘《こ》も、円髷《まるまげ》に結われたそうな。実は、)とこれから帳場へも、つい出入《でいり》のものへも知れ渡りましたでござります。――ところが、大島屋のお上さんはおなくなりなさいます、あとで、お嫁入など、かたがた、三年にも四年にも、さっぱりおいでがござりません。もっともお栄え遊ばすそうで。……ただ、もし、この頃も承りますれば、その上方の御老体は、今年当月も御湯治で、つい四五日《しごんち》あとにお立ちかえりだそうでござりますが。――ふと、その方が御覧になったら、今度のは御病気どころか、そのまま気絶をなさろうかも知れませぬ。
 ――夜泣松の枝へ、提灯を下げまして、この……旧暦の霜月、二十七日でござりますな……真の暗やみの薄明《うすあかり》
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