わし》どもの袂《たもと》には、あっても人魂《ひとだま》でしてな。」
 すたすたと分れたのが、小上《このぼ》りの、畦《あぜ》を横に切れて入った。
「坊主らしいな。……提灯の蝋燭を配るのかと思ったが。」
 俗ではあったが、うしろつきに、欣七郎がそう云った。
 そう言った笑顔に。――自分が引添うているようで、現在《いま》、朝湯の前でも乳のほてり、胸のときめきを幹でおさえて、手を遠見に翳《かざ》すと、出端《でばな》のあし許《もと》の危《あやう》さに、片手をその松の枝にすがった、浮腰を、朝風が美しく吹靡《ふきなび》かした。
 しさって褄《つま》を合せた、夫に対する、若き夫人の優しい身だしなみである。
 まさか、この破屋に、――いや、この松と、それより梢《こずえ》の少し高い、対《つい》の松が、破屋の横にややまた上坂《のぼりざか》の上にあって、根は分れつつ、枝は連理に連《つらな》った、濃い翠《みどり》の色越《いろごし》に、額を捧げて御堂がある。
 夫人は衣紋《えもん》を直しつつ近着いた。
 近づくと、
「あッ、」
 思わず、忍音《しのびね》を立てた――見透《みすか》す六尺ばかりの枝に、倒《さかさま》に裾を巻いて、毛を蓬《おどろ》に落ちかかったのは、虚空に消えた幽霊である。と見ると顔が動いた、袖へ毛だらけの脚が生え、脇腹の裂目に獣の尾の動くのを、狐とも思わず、気は確《たしか》に、しかと犬と見た。が、人の香を慕ったか、そばえて幽霊を噛《か》みちらし、まつわり振った、そのままで、裾を曳《ひ》いて、ずるずると寄って来るのに、はらはらと、慌《あわただ》しく踵《きびす》を返すと、坂を落ち下りるほどの間《ま》さえなく、帯腰へ疾《と》く附着《くッつ》いて、ぶるりと触るは、髪か、顔か。
 花の吹雪に散るごとく、裾も袖も輪に廻って、夫人は朽ち腐れた破屋の縁へ飛縋《とびすが》った。
「誰か、誰方《どなた》か、誰方か。」
「うう、うう。」
 と寝惚声《ねぼけごえ》して、破障子《やぶれしょうじ》[#ルビの「しょうじ」は底本では「しやうじ」]を開けたのは、頭も、顔も、そのままの小一按摩の怨念であった。
「あれえ。」
 声は死んで、夫人は倒れた。
 この声が聞えるのには間遠《まどお》であった。最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心《せきごころ》に草を攀《よ》じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋
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