まったほどにも思わない。冥利《みょうり》として、ただで、お銭《あし》は遣れないから、肩で船を漕《こ》いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」
 と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、
「どうも意固地《いこじ》な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」
「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」
「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍《そば》には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」
「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌《ろく》な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」
「勿体《もったい》ない。――香都良川には月がある、天城山《あまぎやま》には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」
「按摩さん、按摩さん。」
 と欣七郎が声を刻んだ。
「は、」
「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」
「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋《こちら》様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚《ふぐ》のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」
「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」
「旦那、口幅《くちはば》っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確《たしか》でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬《ぷん》とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅《か》ぎますようで、はい。」
 座には今、その白梅よりやや淡青《うすあお》い、春の李《すもも》の薫《かおり》がしたろう。
 うっかり、ぷんと嗅いで、
「不躾《ぶしつ》け。」
 と思わずしゃべった。
「その香の好《よ》さと申したら、通りすがりの私どもさえ、寐《ね》しなに衣《き》ものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと爽《さわや》いで、一晩、極楽天上の夢を見た
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