一景話題
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頃日《このごろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)慈光|洽《あまね》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]
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夫人堂
神戸にある知友、西本氏、頃日《このごろ》、摂津国摩耶山《せっつのくにまやさん》の絵葉書を送らる、その音信《おとずれ》に、
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なき母のこいしさに、二里の山路をかけのぼり候。靉靆《たなび》き渡る霞の中に慈光|洽《あまね》き御《おん》姿を拝み候。
[#ここで字下げ終わり]
しかじかと認《したた》められぬ。見るからに可懐《なつか》しさ言わんかたなし。此方《こなた》もおなじおもいの身なり。遥《はるか》にそのあたりを思うさえ、端麗なるその御《おん》姿の、折からの若葉の中に梢《こずえ》を籠《こ》めたる、紫の薄衣《うすぎぬ》かけて見えさせたまう。
地誌を按《あん》ずるに、摩耶山は武庫郡《むこごおり》六甲山の西南に当りて、雲白く聳《そび》えたる峰の名なり。山の蔭に滝谷《たきだに》ありて、布引《ぬのびき》の滝の源というも風情なるかな。上るに三条《みすじ》の路《みち》あり。一《いつ》はその布引より、一は都賀野村《つがのむら》上野より、他は篠原《しのはら》よりす。峰の形|峻厳崎嶇《しゅんげんきく》たりとぞ。しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。漣《さざなみ》の寄する渚《なぎさ》に桜貝の敷妙《しきたえ》も、雲高き夫人《ぶにん》の御手《みて》の爪紅《つまべに》の影なるらむ。
伝え聞く、摩耶山|※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天王寺《とうりてんのうじ》夫人堂の御像《おんすがた》は、その昔《いにしえ》梁《りょう》の武帝、女人の産に悩む者あるを憐《あわれ》み、仏母《ぶつも》摩耶夫人《まやぶにん》の影像を造りて大功徳を修《しゅ》しけるを、空海上人入唐の時、我が朝に斎《かしず》き帰りしものとよ。
知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣《もう》ずる人の少きにや、諸国の寺院に、夫人を安置し勧請《かんじょう》するものを聞くこと稀《まれ》なり。
十歳《とお》ばかりの頃なりけん、加賀国石川|郡《ごおり》、松任《まっとう》の駅より、畦路《あぜみち》を半町ばかり小村《こむら》に入込《いりこ》みたる片辺《かたほとり》に、里寺あり、寺号は覚えず、摩耶夫人おわします。なき母をあこがれて、父とともに詣でしことあり。初夏《はつなつ》の頃なりしよ。里川に合歓花《ねむ》あり、田に白鷺《しらさぎ》あり。麦やや青く、桑の芽の萌黄《もえぎ》に萌えつつも、北国の事なれば、薄靄《うすもや》ある空に桃の影の紅《くれない》染《そ》み、晴れたる水に李《すもも》の色|蒼《あお》く澄みて、午《ご》の時、月の影も添う、御堂《みどう》のあたり凡ならず、畑《はた》打つものの、近く二人、遠く一人、小山の裾《すそ》に数うるばかり稀なりしも、浮世に遠き思《おもい》ありき。
本堂正面の階《きざはし》に、斜めに腰掛けて六部一人、頭《かしら》より高く笈《おい》をさし置きて、寺より出《いだ》せしなるべし。その廚《くりや》の方《かた》には人の気勢《けはい》だになきを、日の色白く、梁《うつばり》の黒き中に、渠《かれ》ただ一人渋茶のみて、打憩《うちやす》ろうていたりけり。
その、もの静《しずか》に、謹みたる状《さま》して俯向《うつむ》く、背のいと痩《や》せたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。
よし、それとても朧気《おぼろげ》ながら、彼処《かしこ》なる本堂と、向って右の方《かた》に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大《おおい》なる御廚子《みずし》の裡《うち》に、綾《あや》の几帳《きちょう》の蔭なりし、跪《ひぎまず》ける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪《おぐし》の艶《つや》に星一ツ晃々《きらきら》と輝くや、ふと差覗《さしのぞ》くかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉、画《えが》ける唇、したたる露の御《おん》まなざし。瓔珞《ようらく》の珠の中にひとえに白き御胸を、来よとや幽《かすか》に打寛《うちくつ》ろげたまえる、気高く、優しく、かしこくも妙《たえ》に美しき御姿、いつも、まのあたりに見参らす。
今思出でつと言うにはあらねど、世にも慕わしくなつかしきままに、余所《よそ》にては同じ御堂《みどう》のまたあらんとも覚えずして、この年月《としつき》をぞ過《すご》したる。されば、音にも聞かずして、摂津、摩耶山の※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天王寺に摩耶夫人の御堂あ
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