には、それ、嘗て丑の時詣のもの凄い經驗がある、さうではなくても、いづれ一生懸命の婦にも突詰めた絶壁の場合だと思ふと、忽ち颯と殺氣を浴びて、あとへも前へも足が縮んだ、右へのめれば海へ轉がる、左へ轉べば淵へ落ちる。杖を兩手に犇と掴んで根を極め、がツしりと腰を据ゑ、欄干のない橋際を前へ九分ばかり讓つて、其處をお通り下さりませ、で、一分だけわがものに背筋へ瀧の音を浴びて踞んで、うつくしい魔の通るのを堪へて待つたさうである。それがまた長い間なのでございますよ、あなたの前でございますが。カラン、コロンが直き其處にきこえたと思ひましたのが、實は其の何とも寂然とした月夜なので、遠くから響いたので、御本體は遙に遠い、お渡りに手間が取れます、寒さは寒し、さあ、然うなりますと、がつ/\がう/\といふ瀧の音ともろともに、ぶる/\がた/\と、ふるへがとまらなかつたのでございますが、話のやうで、飛でもない、何、あなた、ここに月明に一人、橋に噛りついた男が居るのに、其のカラコロの調子一つ亂さないで、やがて澄して通過ぎますのを、さあ、鬼か、魔か、と事も大層に聞こえませうけれども、まつたく、そんな氣がいたしましてな、千鈞の重さで、すくんだ頸首へ獅噛みついて離れようとしません、世間樣へお附合ばかり少々櫛目を入れました此の素頭を捻向けて見ました處が、何と拍子ぬけにも何にも、銀杏返の中背の若い婦で……娘でございますよ、妙齡の――※[#「姉」の正字、「※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]」の「木」に代えて「女」、749−12]さん、※[#「姉」の正字、「※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]」の「木」に代えて「女」、749−12]さん――私は此方が肝を冷しましただけ、餘りに對手の澄して行くのに、口惜くなつて、――今時分一人で何處へ行きなさる、――いゝえ、あの、網代へ皈るんでございますと言ひます、農家の娘で、野良仕事の手傳を濟ました晩過ぎてから、裁縫のお稽古に熱海まで通ふんだとまた申します、痩せた按摩だが、大の男だ、それがさ、活きた心地はなかつた、といふのに、お前さん、いゝ度胸だ、よく可怖くないね、といひますとな、おつかさんに聞きました、簪を逆手に取れば、婦は何にも可恐くはないと、いたづらをする奴の目の球を狙ふんだつて、キラリと、それ、あゝ、危い、此の上目を狙はれて堪るもんでございますか、もう片手に拔いて持つて居たでございますよ、串戲ぢやありません、裁縫がへりの網代の娘と分つても、そのうつくしい顏といひ容子といひ、月夜の眞夜中、折からと申し……といつて揉み分けながらその聞手の糸七の背筋へ頭を下げた。觀音樣のお腰元か、辨天樣のお使姫、當の娘の裁縫といふのによれば、そのまゝ天降つた織姫のやう思はれてならない、といふのである。
 かうしたどの話、いづれの場合にも、あつて然るべき、冒險の功名と、武勇の勝利がともなはない、熱海のこの按摩さんは一種の人格しやと言つてもいゝ、學んで然るべしだ。
 ――處で、いま、修禪寺奧の院道の三寶ヶ辻に於ける糸七の場合である。
 夜の霧なかに、ほのかな提灯の灯とゝもに近づくおぼろにうつくしい婦の姿に對した。
 糸七は其のまゝ人格しやの例に習つた、が、按摩でないだけに、姿勢は渠と反對に道を前にして洋杖を膝に取つた、突出しては通る人の裳を妨げさうだから。で、道端へ踞んだのである。
 がさ/\と、踞込む、その背筋へ觸るのが、苅殘しの小さな茄子畠で……然ういへば、いつか番傘で蛙を聞いた時こゝに畝近く蠶豆の植つて居たと思ふ……もう提灯が前を行く……その灯とともに、枯莖に殘つた澁い紫の小さな茄子が、眉をたゝき耳を打つ礫の如く目を遮るとばかりの隙に、婦の姿は通過ぎた。
 や、一人でない、銀杏返しの中背なのが、添並んでと見送つたのは、按摩さんの話にくツつけた幻覺で、無論唯一人、中背などゝいふよりは、すつとすらりと背が高い、そして、氣高く、姿に威がある。
 その姿が山入の眞暗な村へは向かず、道の折めを、やゝ袖なゝめに奧の院へ通ふ橋の方へ、あの、道下り奧入りに、揃へて順々に行方も遙かに心細く思はれた、稻塚の數も段々に遠い處へ向つたのである。
 釣橋の方からはじめは左の袖だつた提灯が、然うだ、その時ちらりと見た、糸七の前を通る前後を知らぬ間に持替へたらしい、いま其の袂に灯れる。
 その今も消えないで、反つて、色の明くなつた、ちら/\と映る小さな紅は、羽をつないで、二つつゞいた赤蜻蛉で、形が浮くやうで、沈んだやうで、ありのまゝの赤蜻蛉か、提灯に描いた畫か、見る目には定まらないが、態は鮮明に、其の羽摺れに霧がほぐれるやうに、尾花の白い穗が靡いて、幽な音の傳ふばかり、二つの紅い條が道芝の露に濡れつゝ、薄い桃色に見えて行く。



底本:「鏡花全集 第二十四巻」岩波書店
   1940(昭和15)年6月30日第1刷発行
   1988(昭和63)年8月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年9月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング