撰んだ時は、――其以前、糸七が小玉小路で蛙の聲を聞いてから、ものゝ三十年あまりを經て居たが、胸の何處に潜み、心の何處にかくれたか、翼なく嘴なく、色なく影なき話の種子は、小机からも、硯からも、其の形を顯はさなかつた、まるで消えたやうに忘れて居た。
 それを、其の折から尚ほ十四五年ののち、修禪寺の奧の院路三寶ヶ辻に彳んで、蛙を聞きながら、ふと思出した次第なのである。
 悠久なるかな、人心の小さき花。
 あゝ、悠久なる……
 そんな事をいつたつて、わかるやうな女連ではない。
「――一つ此の傘を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]はして見ようか。」
 糸七は雨のなかで、――柳橋を粗と話したのである。
「今いつた活東が辨慶橋でやつたやうに。」
「およしなさい、澤山。」
 と女房が聲ばかりでたしなめた。田の縁に並んだが中に娘分が居ると、もうその顏が見えないほど暗かつた。
「でも、妙ね、然ういへば……何ですつて、蛙の聲が、其の方には、こがれる女の小玉だ、小玉だと聞こえたんですつて、こたまだ。あら、眞個だ、串戲ぢやないわ、叔母さん、こたまだ、こたまだツて鳴いてるわね、中でも大きな聲なのね
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