聽聞することが少しばかり後れたのである。
實は、怪を語れば怪至る、風説をすれば影がさす――先哲の識語に鑒みて、温泉宿には薄暗い長廊下が續く處、人の居ない百疊敷などがあるから、逗留中、取り出ては大提灯の怪を繰返して言出さなかつたし、東京に皈ればパツと皆消える……日記を出して話した處で、鉛筆の削屑ほども人が氣に留めさうな事でない、婦たちも、そんな事より釜の底の火移りで翌日のお天氣を占ふ方が忙しいから、たゞ其のまゝになつて過ぎた。
翌年――それは秋の末である。糸七は同じ場所――三寶ヶ辻の夜目に同じ處におなじ提灯の顯はれたのを視た。――
……然うは言つても第一季節は違ふ、蛙の鳴く頃ではなし、それに爾時は女房ばかりが同伴の、それも宿に留守して、夜歩行をしたのは糸七一人だつたのである。
夕餉が少し晩くなつて濟んだ、女房は一風呂入らうと云ふ、糸七は寐る前にと、その間をふらりと宿を出た、奧の院の道へ向つたが、
「まづ、御一名――今晩は。」
と道しるべの石碑に挨拶をする、微醉のいゝ機嫌……機嫌のいゝのは、まだ一つ、上等の卷莨に火を點けた、勿論自費購求の品ではない、大連に居る友達が土産にくれたのが、素敵な薫りで一人其の香を聞くのが惜い、燐寸の燃えさしは路傍の小流に落したが、さら/\と行く水の中へ、ツと音がして消えるのが耳についたほど四邊は靜で。……あの釣橋、その三寶ヶ辻――一昨夜、例の提灯の暗くなつて隱れた山入の村を、とふと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]したが、今夜は素より降つては居ない、がさあ、幾日ぐらゐの月だらうか、薄曇りに唯茫として、暗くはないが月は見えない、星一つ影もささなかつた、風も吹かぬ。
煙草の薫が來たあとへも、ほんのりと殘りさうで、袖にも匂ふ……たまさかに吸つてふツと吹くのが、すら/\と向ふへ靡くのに乘つて、畷のほの白いのを蹈むともなしに、うか/\と前途なる其の板橋を渡つた。
こゝで見た景色を忘れない、苅あとの稻田は二三尺、濃い霧に包まれて、見渡すかぎり、一面の朧の中に薄煙を敷いた道が、ゆるく、長く波形になつて遙々と何處までともなく奧の院の雲の果まで、遠く近く、一むらの樹立に絶えては續く。
その路筋を田の畔畷の左右に、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つと順々に數へるとふわりと霧に包まれて、ぼうと末消えたのが浮いて出たやうに又一つ二つ三つ
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