茶の帯して、白綾《しろあや》の衣紋《えもん》を襲《かさ》ねた、黒髪の艶《つやや》かなるに、鼈甲《べっこう》の中指《なかざし》ばかり、ずぶりと通した気高き簾中《れんじゅう》。立花は品位に打たれて思わず頭《かしら》が下ったのである。
ものの情深《なさけぶか》く優しき声して、
「待遠かったでしょうね。」
一言《いちげん》あたかも百雷耳に轟《とどろ》く心地。
「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急《せっかち》ね、さあ、貴下《あなた》から。」
立花はあたかも死せるがごとし。
「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」
正にこの声、確《たしか》にその人、我が年紀《とし》十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上《としうえ》の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間|一度《ひとたび》もその顔を見なかった、絶代《ぜつだい》の佳人《かじん》である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月《いくとしつき》、寝ても覚《さめ》ても、夢に、現《うつつ》に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言《ことば》を未《いま》だ知らずにいたから。
さりながら、さりながら、
「立花さん、これが貴下《あなた》の望《のぞみ》じゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって将棊《しょうぎ》を一度さそうというのが。
そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆《みんな》、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望《のぞみ》もかなうし、そうやってお身体《からだ》も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。
こうして私と将棊をさすより、余所《よそ》の奥さんと不義をするのが望《のぞみ》なの?」
衝《つ》と手を伸《のば》して、立花が握りしめた左の拳《こぶし》を解くがごとくに手を添えつつ、
「もしもの事がありますと、あの方もお可哀《かわい》そうに、もう活《い》きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡《ごりょうけん》なら、私が身を棄《す》ててあげましょう。一所になってあげましょうから、他《よそ》の方に心得違《こころえちがい》をしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、果《はて》は涙になるばかり、念被観音力《ねんぴかんのんりき》観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。
後《うしろ》にも前にも左右にもすくすくと人の影。
「あッ。」とばかり戦《わなな》いて、取去ろうとすると、自若《じじゃく》として、
「今では誰が見ても可《い》いんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」
静《しずか》に放すと、取られていた手がげっそり痩《や》せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺《しわ》が見えるに、屹《きっ》と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る肩に垂れて、渦《うずま》いて、不思議や、己《おの》が身は白髪になった、時に燦然《さんぜん》として身の内の宝玉は、四辺《あたり》を照《てら》して、星のごとく輝いたのである。
驚いて白髪《しらが》を握ると、耳が暖く、襖《ふすま》が明いて、里見夫人、莞爾《にっこり》して覗込《のぞきこ》んで、
「もう可《い》いんですよ。立花さん。」
操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜の中《うち》に、人知れず、暗《やみ》ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現《うつつ》の境の幻の道を行《ゆ》くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥《はるか》に美術家の前程を祝した、誰も知らない。
ただ夫人は一夜《ひとよ》の内に、太《いた》く面《おも》やつれがしたけれども、翌日《あくるひ》、伊勢を去る時、揉合《もみあ》う旅籠屋《はたごや》の客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。
[#地から1字上げ]明治三十六(一九〇三)年五月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店
1942(昭和17)年7月22日発行
※誤植が疑われる箇所を、底本の親本を参照してあらためました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年1月30日作成
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