は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試《み》た。
人の妻と、かかる術《すべ》して忍び合うには、疾《と》く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命《いのち》のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命《いのち》よりは便《たより》にしたのであるが。
こはいかに掌《たなそこ》は、徒《いたずら》に空《くう》を撫《な》でた。
慌《あわただ》しく丁《ちょう》と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗《やみ》を掻探《かいさぐ》ったが、遮るものは何にもない。
さては、暗《やみ》の中に暗をかさねて目を塞《ふさ》いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝《つ》と今度は腕《かいな》を差出すようにしたが、それも手ばかり。
はッと俯向《うつむ》き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
かっと逆上《のぼ》せて、堪《たま》らずぬっくり突立《つッた》ったが、南無三《なむさん》物音が、とぎょッとした。
あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫《せきばく》として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事|不省《ふせい》ならんとする、瞬間に異ならず。
同時に真直《まっすぐ》に立った足許に、なめし皮の樺色《かばいろ》の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然《ぞっ》とした。
靴が左から……ト一ツ留《とま》って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
たとえば歩行の折から、爪尖《つまさき》を見た時と同じ状《さま》で、前途《ゆくて》へ進行をはじめたので、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と見る見る、二|間《けん》三|間《げん》。
十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方《かなた》に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪《あやし》む、とあらず、歩を移すのは渠《かれ》自身、すなわち立花であった。
茫然《ぼうぜん》。
世に茫然という色があるなら、四辺《あたり》の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路《みち》もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷《つめた》からず、朧夜《おぼろよ》かと思えば暗く、東雲《しののめ》かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓《こたつやぐら》の形など左右、二列《ふたなら》びに、不揃《ぶぞろ》いに、沢庵《たくあん》の樽《たる》もあり、石臼《いしうす》もあり、俎板《まないた》あり、灯のない行燈《あんどう》も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。
しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微《かすか》に揺《ゆら》いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸《いき》のあるは悉《ことごと》く死して、かかる者のみ漾《ただよ》う風情、ただソヨとの風もないのである。
十
その中《うち》に最も人間に近く、頼母《たのも》しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃《からびつ》の上に、一個八角時計の、仰向《あおむ》けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近《ちかづ》けて差覗《さしのぞ》いたが、ものの影を見るごとき、四辺《あたり》は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然《はっきり》と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明《あざやか》にその数字さえ算《かぞ》えられたのは、一点、蛍火《ほたるび》の薄く、そして瞬《またたき》をせぬのがあって、胸のあたりから、斜《ななめ》に影を宿したためで。
手を当てると冷《つめた》かった、光が隠れて、掌《たなそこ》に包まれたのは襟飾《えりかざり》の小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと樹《こ》の間から射《さ》す月の影、露の溢《こぼ》れたかと輝いたのは、蓋《けだ》し手釦《てぼたん》の玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕《かいな》を開くと胸がまた晃《きらめ》きはじめた。
この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠《みどり》の蝶《ちよう》の舞うばかり、目に遮るものは、臼《うす》も、桶《おけ》も、皆これ青貝摺《あおがいずり》の器《うつわ》に斉《ひとし》い。
一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯《さっ》と揺れ、溌《ぱっ》と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀《しろがね》黄金《こがね》、水晶、珊瑚珠《さんごじゅ》、透間《すきま》もなく鎧《よろ》うたるが、月に照添うに露|違《たが》わず、され
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