囲《いまわり》が広く、破れてはいるが、筵《むしろ》か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲《かこい》なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣《つか》っているのであろう、身を忍ぶのは誂《あつら》えたようであるが。
(待て。)
 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾《はや》いか、ものをいうよりはまず唇の戦《おのの》くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交《みかわ》したばかりで、かねて算した通り、一先《ひとま》ず姿を隠したが、心の闇《やみ》より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴《な》れたせいであろう。
 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦《まちあぐ》んでいるのであった。
(まず、可《よ》し。)
 と襖《ふすま》に密《そっ》と身を寄せたが、うかつに出らるる数《すう》でなし、言《ことば》をかけらるる分でないから、そのまま呼吸《いき》を殺して彳《たたず》むと、ややあって、はらはらと衣《きぬ》の音信《おとない》。
 目前《めさき》へ路《みち》がついたように、座敷をよぎる留南奇《とめぎ》の薫《かおり》、ほの床《ゆか》しく身に染むと、彼方《かなた》も思う男の人香《ひとか》に寄る蝶《ちょう》、処を違《たが》えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
 襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「可《い》いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
 表に夫人の打微笑《うちほほえ》む、目も眉も鮮麗《あざやか》に、人丈《ひとたけ》に暗《やみ》の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷《まげ》を劃《くぎ》って明《あかる》い。
 立花も莞爾《にっこり》して、
「どうせ、騙《だま》すくらいならと思って、外套《がいとう》の下へ隠して来ました。」
「旨《うま》く行ったのね。」
「旨く行《ゆ》きましたね。」
「後で私を殺しても可《い》いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お稲《いな》さん。」
「ええ。」となつかしい低声《こごえ》である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た筈《はず》じゃないの。」
「どうして貴方《あなた》に逢《あ》うまで、お飯《まんま》が咽喉《のど》へ入るもんですか。」
「まあ……」
 黙ってしばらくし
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