夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を反《そら》して支《つ》くと、膝を辷《すべ》った桃色の絹のはんけちが、褄《つま》の折端《おりはし》へはらりと溢《こぼ》れた。
「厭《いや》だよ、串戯《じょうだん》ではないよ、穿物がないんだって。」
「御意にござりまする。」
「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄《いこう》の中に眉暗く、洋燈《ランプ》の光の隈《くま》あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷《まげ》の高いのも艶々《つやつや》として、そこに人が居そうな気勢《けはい》である。
 畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸《ひといき》つき、
「で、ござりまするなあ。」
「お前、そういえば先刻《さっき》、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、突《つッ》ついていると、何なの、しばらくすると、今の姐《ねえ》さんが、ばたばた来たの。次の室《ま》のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、言《ことば》をかけようとする内に、直ぐ忙《せわ》しそうに出て行って、今度来た時には、突然《いきなり》、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも訝《いぶか》しげに、番頭の顔を熟《じっ》と見ていう。
 いよいよ、きょとつき、
「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足《いそぎあし》にすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音《あしおと》がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸《いき》を切って駈けまして、それでどうかすると、背後《うしろ》から、そのお客の身体《からだ》が、ぴったり附着《くッつ》きそうになりまする。」
 番頭は気がさしたか、密《そっ》と振返って背後《うしろ》を見た、釜《かま》の湯は沸《たぎ》っているが、塵《ちり》一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗《きれい》であった。
「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」

       八

「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽《ひょうきん》な方で、一番《ひとつ》三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござります
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