必ず必ずお急《せ》き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊《とまり》が難しゅうござりますので。
 はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇《かげ》で、繁昌《はんじょう》をいたしまするが、旧の大晦日《おおみそか》と申しますと、諸国の講中《こうじゅう》、道者《どうじゃ》、行者《ぎょうじゃ》の衆《しゅ》、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠《こもり》をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客《あなた》、五十鈴川で嗽手水《うがいちょうず》、神路山を右に見て、杉の樹立《こだち》の中を出て、御廟《おたまや》の前でほのぼのと白《しら》みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。
 旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門《かど》などは軒並《のきなみ》戸が開《あ》いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。
 どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」
 婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、
「しかし貴客《あなた》、三人、五人こぼれますのは、旅籠《はたごや》でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲《かこい》だの、数寄《すき》な四阿《あずまや》だの、主人《あるじ》の住居《すまい》などで受けるでござりますよ。」
 と搦手《からめて》を明けて落ちよというなり。
 けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄《ききず》てにもせず、何《なん》の機会《きっかけ》もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込《つッこ》んで、
「お婆さん、勘定だ。」
「はい、あなた、もし御飯《おまんま》はいかがでござります。」
 客は仰向《あおむ》いて、新《あらた》に婆々の顔を見て莞爾《かんじ》とした。
「いや、実は余り欲しくない。」
「まあ、ソレ御覧《ごろう》じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸《すだこ》を食《あが》りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯《いちぜんめし》がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」
「時に、三由屋《みよしや》という旅籠はあるね。」
「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客《ひ
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