なれど、宗旨々々のお祖師様でも、行《ゆ》きたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。」
「ほんにの、お婆さん。」
「今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、黄金《こがね》か、珠玉《たま》か、と尋ねさっしゃるとの。
その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。
そう云えば何となく、顔容《かおかたち》も柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。」
先生は面《おもて》を背けて、笑《えみ》を含んで、思わずその口のあたりを擦《こす》ったのである。
「それは奇特じゃ、小児衆《こどもしゅ》の世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。」
「さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、慾《よく》も徳も悟ったお方じゃ。何事があっても莞爾々々《にこにこ》とさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように難有《ありがた》い気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。
先生様が言わっしゃるには、伝もない、教《おしえ》もない。私《わし》はどうした結縁《けちえん》か、その顔色《かおつき》から容子《ようす》から、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、明暮《あけくれ》、地蔵、地蔵と念ずる。
痛い時、辛い時、口惜《くちおし》い時、怨《うら》めしい時、情《なさけ》ない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、地蔵菩薩《じぞうぼさつ》なら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。」
「御奇特でござるのう。」
「じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。
折から夏休みにの、お邸中《やしきじゅう》が浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この川添《かわぞい》の小橋の際《きわ》のの、蘆《あし》の中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しの崖《がけ》を越えて、二つ目の浜の石屋が方《かた》へ行《ゆ》かれたげじゃ。
のう、先生様は先生様、また難有《ありがた》いお方として、浄財《おたから》を喜捨なされます、その奥様の
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