愛と婚姻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)媒妁人《なかうど》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)皆|合※《がふきん》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)[#「※」は「丞」の下に「ふしづくり」、第4水準2−3−54、413−上5]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)欣々然《きん/\ぜん》
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 媒妁人《なかうど》先《ま》づいふめでたしと、舅姑《きうこ》またいふめでたしと、親類等皆いふめでたしと、知己《ちき》朋友《ほういう》皆いふめでたしと、渠等《かれら》は欣々然《きん/\ぜん》として新夫婦の婚姻を祝す、婚礼果してめでたきか。
 小説に於《お》ける男女の主客が婚礼は最《いと》めでたし。何《なん》となれば渠等の行路難は皆|合※《がふきん》[#「※」は「丞」の下に「ふしづくり」、第4水準2−3−54、413−上5]の事ある以前既に経過し去りて、自来無事|悠々《いう/\》の間《あひだ》に平和なる歳月を送ればなり。
 然《しか》れども斯《かく》の如《ごと》きはたゞ一部、一篇、一局部の話柄《わへい》に留《とゞ》まるのみ。其実《そのじつ》一般の婦人が忌むべく、恐るべき人生観は、婚姻以前にあらずして、其以後にあるものなりとす。
 渠等が慈愛なる父母の掌中を出《い》でて、其身を致《いた》す、舅姑はいかむ。夫はいかむ。小姑《こじうと》はいかむ。すべての関係者はいかむ。はた社会はいかむ。在来の経験に因りて見る処のそれらの者は果していかむ。豈《あに》寒心すべきものならずや。
 婦人の婚姻に因りて得《う》る処のものは概《おほむ》ね斯の如し。而《しかう》して男子もまた、先人|曰《いは》く、「妻なければ楽《たのしみ》少く、妻ある身には悲《かなしみ》多し」とそれ然るのみ。
 然れども社会は普通の場合に於て、個人的に処し得べきものにあらず。親のために、子のために、夫のために、知己親類のために、奴僕《ぬぼく》のために。町のために、村のために、家のために、窮せざるべからず、泣かざるべからず、苦まざるべからず、甚《はなはだ》しきに至りては死せざるべからず、常に我《われ》といふ一個簡単なる肉体を超然たらしむることを得で、多々《おほく》他人に因りて左右せられ、是非せられ、猶《なほ》且《か》つ支配さるゝものたり。但《たゞ》愛のためには必ずしも我といふ一種勝手次第なる観念の起るものにあらず、完全なる愛は「無我」のまたの名なり。故《ゆゑ》に愛のためにせむか、他に与へらるゝものは、難といへども、苦といへども、喜んで、甘《あまん》じて、これを享《う》く。元来不幸といひ、窮苦といひ、艱難辛苦《かんなんしんく》といふもの、皆我を我としたる我を以《もつ》て、他に――社会に――対するより起る処の怨言《ゑんげん》のみ。愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれ苦楽あらむや。
 情死、駈落《かけおち》、勘当《かんだう》等、これ皆愛の分弁たり。すなはち其人のために喜び、其人のために祝して、これをめでたしといはむも可なり。但社会のためには歎ずべきのみ。独《ひと》り婚礼に至りては、儀式上、文字上《もんじじやう》、別に何等の愛ありて存するにあらず。唯《たゞ》男女相会して、粛然と杯《さかづき》を巡《めぐ》らすに過ぎず。人の未《いま》だ結婚せざるや、愛は自由なり。諺《ことわざ》に曰く「恋に上下の隔《へだて》なし」と。然り、何人《なんぴと》が何人に恋するも、誰《たれ》かこれを非なりとせむ。一旦結婚したる婦人はこれ婦人といふものにあらずして、寧《むし》ろ妻といへる一種女性の人間なり。吾人《ごじん》は渠《かれ》を愛すること能《あた》はず、否《いな》愛すること能はざるにあらず、社会がこれを許さざるなり。愛することを得ざらしむるなり。要するに社会の婚姻は、愛を束縛して、圧制して、自由を剥奪《はくだつ》せむがために造られたる、残絶、酷絶の刑法なりとす。
 古来いふ佳人は薄命なり、と、蓋《けだ》し社会が渠をして薄命ならしむるのみ。婚姻てふものだになかりせば、何人《なんら》の佳人か薄命なるべき。愛に於ける一切の、葛藤《かつとう》、紛紜《ふんうん》、失望、自殺、疾病《しつぺい》等あらゆる恐るべき熟字は皆婚姻のあるに因りて生ずる処の結果ならずや。
 妻なく、夫なく、一般の男女は皆たゞ男女なりと仮定せよ。愛に対する道徳の罪人は那辺《なへん》にか出来《いできた》らむ、女子は情《じやう》のために其夫を毒殺するの要なきなり。男子は愛のために密通することを要せざるなり。否、たゞに要せざるのみならず、爾《しか》き不快なる文字《もんじ》はこれを愛の字典の何ペエジに求む
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