心得て、もの優しい宿の主人も、更《あらた》めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程《た》ったのは、同じ夜《よ》の、実は、八時頃であった。
 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏《おだやか》でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂《たもと》を振切る。……
 
 お光が中くらいな鞄《かばん》を提げて、肩をいからすように、大跨《おおまた》に歩行《ある》いて、電車の出発点まで真直《まっす》ぐに送って来た。
 道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、蚤《のみ》にくわれても、女《あま》ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
 停車|場《じょう》の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭《うなず》いた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品《ひとしな》下んせね。鼻紙でも、手巾《ハンケチ》でも、よ。」
 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
 このおもみに、トンと圧《お》されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯《じょうだん》だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺《ひきず》るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
 発車した。

 ――お光は、夜《よ》の隙《ひま》のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外《おもて》へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾《あつぶすま》、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言《むつごと》のように語り合う、小春と、雛妓《おしゃく》、爺さん、小児《こども》たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
 黒い外套を来た湯女《ゆな》が、総湯の前で、殺された、刺された風説《うわさ》は、山中、片山津、粟津、大聖寺《だいしょうじ》まで、電車で人とと
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