抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟《じっ》とすかして――そう言った。
「お門《かど》が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家《となり》の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着《くッつ》いた。
 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引《ひっ》かぶった若い衆《しゅ》が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々《うろうろ》する。
 この時であった。
 夜《よ》も既に、十一時すぎ、子《ね》の刻か。――柳を中に真向いなる、門《かど》も鎖《とざ》し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛《とまか》けた大船のごとく静まって、梟《ふくろ》が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷《すべ》ると、帳場が見えて、勝手は明《あかる》い――そこへ、真黒《まっくろ》な外套《がいとう》があらわれた。
 背後《うしろ》について、長襦袢《ながじゅばん》するすると、伊達巻《だてまき》ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔《ぼら》と、比目魚《ひらめ》のあるのを、うっかり跨《また》いで、怯《おび》えたような脛《はぎ》白く、莞爾《にっこり》とした女が見える。
「くそったれめ。」
 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細《ほっそ》りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺《ふ》って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
 これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗《うろこ》を立てて、逆《さかさま》に尖《とが》って燃えた。
 途端に小春の姿はかくれた。
 あとの大戸を、金の額ぶちのように背負《しょ》って、揚々として大得意の体《てい》で、紅閨《こうけい》のあとを一散歩、贅《ぜい》を遣《や》る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗《のぞ》き、火の見を仰いで、移香《うつりが》を惜気《おしげ》なく、酔《えい》ざましに、月の景色を見る状《さま》の、その行く処には、返咲《かえりざき》の、桜が咲き、柑子《こうじ》も色づく。……他《よそ》の旅館の庭の前、垣根などをぶらつ
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