おばけずきのいわれ少々と処女作
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)明《あきら》か
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お寺|詣《まい》り
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]
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僕は随分な迷信家だ。いずれそれには親ゆずりといったようなことがあるのは云う迄もない。父が熱心な信心家であったこともその一つの原因であろう。僕の幼時には物見遊山に行くということよりも、お寺|詣《まい》りに連れられる方が多かった。
僕は明《あきら》かに世に二つの大《おおい》なる超自然力のあることを信ずる。これを強いて一|纏《まと》めに命名すると、一を観音力《かんのんりき》、他を鬼神力とでも呼ぼうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。
鬼神力が具体的に吾人の前に現顕する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本脚傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪変化の類《たぐい》は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。
鬼神力が三つ目小僧となり、大入道となるように、また観音力の微妙なる影向《ようごう》のあるを見ることを疑わぬ。僕は人の手に作られた石の地蔵に、かしこくも自在の力ましますし、観世音に無量無辺の福徳ましまして、その功力《くりき》測るべからずと信ずるのである。乃至《ないし》一草一木の裡《うち》、あるいは鬼神力宿り、あるいは観音力宿る。必ずしも白蓮《びゃくれん》に観音立ち給い、必ずしも紫陽花《あじさい》に鬼神隠るというではない。我が心の照応する所境によって変幻極りない。僕が御幣を担ぎ、そを信ずるものは実にこの故である。
僕は一方鬼神力に対しては大なる畏《おそ》れを有《も》っている。けれどもまた一方観音力の絶大なる加護を信ずる。この故に念々頭々かの観音力を念ずる時んば、例えばいかなる形において鬼神力の現前することがあるとも、それに向ってついに何等の畏れも抱くことがない。されば自分に取っては最も畏るべき鬼神力も、またある時は最も親《したし》むべき友たることが少くない。
さらば僕はいかに観音力を念じ、いかに観音の加護を信ずるかというに、由来が執拗《しつよう》なる迷信に執《とら》えられた僕であれば、もとよりあるいは玄妙なる哲学的見地に立って、そこに立命の基礎を作り、またあるいは深奥なる宗教的見地に居《お》って、そこに安心の臍《ほぞ》を定めるという世にいわゆる学者、宗教家達とは自《おのずか》らその信仰状態を異にする気の毒さはいう迄もない。
僕はかの観音経を読誦《どくじゅ》するに、「彼の観音力を念ずれば」という訓読法を用いないで、「念彼観音力《ねんぴかんのんりき》」という音読法を用いる。蓋《けだ》し僕には観音経の文句――なお一層適切に云えば文句の調子――そのものが難有《ありがた》いのであって、その現《あらわ》してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有《も》たぬのである。この故に観音経を誦《じゅ》するもあえて箇中の真意を闡明《せんめい》しようというようなことは、いまだかつて考え企てたことがない。否《い》な僕はかくのごとき妙法に向って、かくのごとく考えかくのごとく企つべきものでないと信じている。僕はただかの自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚《とうと》しとするものである。
そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半《なかば》以上|懸《かか》って音調(ふしがあるという意味ではない。)の上にあることを信ずるのである。故に三下《さんさが》りの三味線で二上《にあが》りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値《あたい》の一半を失ったものと断言することを得。ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。ですから僕は水には音あり、樹には声ある文章を書きたいとかせいでいる。
話は少しく岐路《えだ》に入った、今再び立戻って笑わるべき僕が迷信の一例を語らねばならぬ。僕が横寺町の先生の宅にいた頃、「読売」に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投入するのが日課だったことがある。原稿が一度なくなると復《また》容易に稿を更《あらた》め難いことは、我も人も熟《よ》く承知している所である。この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。先ず先生から受取った原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやって行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入せられてしばらくは原稿を離れ得ない。やがてようやく稿を離れて封筒はポストの底に落ちる。けれどそれだけでは安心が出来ない。もしか原稿はポストの周囲にでも落ちていないだろうかという危惧《きぐ》は、直ちに次いで我を襲うのである。そうしてどうしても三回、必ずポストを周って見る。それが夜ででもあればだが、真昼中|狂気染《きちがいじ》みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚《はばか》られる、人の見ぬ間を速疾《はや》くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥《たしか》めるために、ポストの方を振り返って見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。
しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな見苦しい事をする。」と怒鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまった。蓋《けだ》し自分が絶対の信用を捧ぐる先生の一喝は、この場合なお観音力の現前せるに外ならぬのである。これによって僕は宗教の感化力がその教義のいかんよりも、布教者の人格いかんに関することの多いという実際を感じ得た。
僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然《ぞっ》とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らかなることはなかった。眠ろうとするに、魔は我が胸に重《かさな》りきて夢は千々に砕かれる。座を起《た》とうとするに、足あるいは虫を蹈《ふ》むようなことはありはせぬかと、さすが殺生の罪が恐しくなる。こんな有様で、昼夜を分たず、ろくろく寝ることもなければ、起きるというでもなく、我在りと自覚するに頗《すこぶ》る朦朧《もうろう》の状態にあった。
ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀という池に身を投げようとさえ決心したことがあった。しかもかくのごときはただこれ困窮の余《あまり》に出《い》でたことで、他に何等の煩悶《はんもん》があってでもない。この煩悶の裡《うち》に「鐘声夜半録」は成った。稿の成ると共に直ちにこれを東京に郵送して先生の校閲を願ったが、先生は一読して直ちに僕が当時の心状を看破せられた。返事は折返し届いて、お前の筆端には自殺を楽《たのし》むような精神が仄《ほの》見える。家計の困難を悲《かなし》むようなら、なぜ富貴の家には生れ来ぬぞ……その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある……
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其の胆の小なる芥子《けし》の如く其の心の弱きこと芋殻の如し、さほどに貧乏が苦しくば、安《いずくん》ぞ其始め彫※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]《ちょうい》錦帳の中に生れ来らざりし。破壁残軒の下に生を享《う》けてパンを咬《か》み水を飲む身も天ならずや。
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馬鹿め、しっかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することが出来た。今日《こんにち》といえども想うて当時の事に到るごとに、心|自《おのず》ら寒からざるを得ない。
迷信譚はこれで止《や》めて、処女作に移ろう。
この「鐘声夜半録」は明治二十七年あたかも日清戦争の始まろうという際に成ったのであるが、当時における文士生活の困難を思うにつけ、日露開戦の当初にもまたあるいは同じ困難に陥りはせぬかという危惧《きぐ》からして、当時の事を覚えている文学者仲間には少からぬ恐慌《きょうこう》を惹《ひ》き起し、額を鳩《あつ》めた者もなきにしもあらずであったろう。
二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳《ききんどし》であった。まだ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買ってもらおうというに所はなく、新聞は戦争に逐《お》われて文学なぞを載せる余裕はない。いわゆる文壇|餓殍《がひょう》ありで、惨憺極《さんたんきわま》る有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易にその恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)。
その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否《い》な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によって、先生の宅に出入する幕賓連中迄|兀々《こつこつ》として筆をこの種の田舎新聞に執ったものだ。それで報酬はどうかというと一日一回三枚半で、一月が七円五十銭である。そこで活字が嬉しいから、三枚半で先ず……一回などという怪《け》しからん料簡方《りょうけんがた》のものでない。一回五六枚も書いて、まだ推敲《すいこう》にあらずして横に拡《ひろが》った時もある。楽屋落ちのようだが、横に拡がるというのは森田先生の金言で、文章は横に拡がらねばならぬということであり、紅葉先生のは上に重ならねばならぬというのであった。
その年即ち二十七年、田舎で窮していた頃、ふと郷里の新聞を見た。勿論金を出して新聞を購読するような余裕はない時代であるから、新聞社の前に立って、新聞を読んでいると、それに「冠弥左衛門」という小説が載っている。これは僕の書いたもののうちで、始めて活版になったものである。元来この小説は京都の日の出新聞から巌谷小波《いわやさざなみ》さんの処へ小説を書いてくれという註文が来てて、小波さんが書く間《ま》の繋《つなぎ》として僕が書き送ったものである。例の五枚寸延びという大安売、四十回ばかり休みなしに書いたのである。
本人始めての活版だし、出世第一の作が、多少上の部の新聞に出たことでもあれば、掲載済の分を、朝から晩まで、横に見たり、縦に見たり、乃至《ないし》は襖《ふすま》一重隣のお座敷の御家族にも、少々聞えよがしに朗読などもしたのである。ところがその後になって聞いてみると、その小説が載ってから完結になる迄に前後十九通、「あれでは困る、新聞が減る、どうか引き下げてくれ」という交渉が来たということである。これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれでは可憫《かわい》そうだという。慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年(二十六年)であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。
そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々《かたがた》ここに二度の勤めをするこの小説の由来も聞いてみたし、といって、まだ新聞社に出入ったことがないので、一向に様子もわからず、遠慮がち臆病《おくびょう》がちに社に入って見ると、どこの受付でも、恐《こわ》い顔のおじさんが控えているが、ここにも紋切形のおじさんが、何の用だ、と例の紋切形を並べる。その時僕は恐る恐る、実は今
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