えられた僕であれば、もとよりあるいは玄妙なる哲学的見地に立って、そこに立命の基礎を作り、またあるいは深奥なる宗教的見地に居《お》って、そこに安心の臍《ほぞ》を定めるという世にいわゆる学者、宗教家達とは自《おのずか》らその信仰状態を異にする気の毒さはいう迄もない。
 僕はかの観音経を読誦《どくじゅ》するに、「彼の観音力を念ずれば」という訓読法を用いないで、「念彼観音力《ねんぴかんのんりき》」という音読法を用いる。蓋《けだ》し僕には観音経の文句――なお一層適切に云えば文句の調子――そのものが難有《ありがた》いのであって、その現《あらわ》してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有《も》たぬのである。この故に観音経を誦《じゅ》するもあえて箇中の真意を闡明《せんめい》しようというようなことは、いまだかつて考え企てたことがない。否《い》な僕はかくのごとき妙法に向って、かくのごとく考えかくのごとく企つべきものでないと信じている。僕はただかの自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚《とうと》しとするものである。
 そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半《なかば》以上|懸《かか》って音調(ふしがあるという意味ではない。)の上にあることを信ずるのである。故に三下《さんさが》りの三味線で二上《にあが》りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値《あたい》の一半を失ったものと断言することを得。ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。ですから僕は水には音あり、樹には声ある文章を書きたいとかせいでいる。
 話は少しく岐路《えだ》に入った、今再び立戻って笑わるべき僕が迷信の一例を語らねばならぬ。僕が横寺町の先生の宅にいた頃、「読売」に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投入するのが日課だったことがある。原稿が一度なくなると復《また》容易に稿を更《あらた》め難いことは、我も人も熟《よ》く承知している所である。この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。先ず先生から受取った原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやって行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入
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