い《アインザアム》と云ふ心の底から絞り出したやうな老人の詞が、メスのやうに私の胸に迫つた。老人の人懷しさうな瞳には涙が潤んでゐた。
「でも、やつとこのカフエエの女達と知合になりました。みんなはほんとに親切です。だが、惜しい事に私は日本語が話せません……」老人は再び寂しい微笑を浮べて、そのまま口を噤んだ。
 部屋の中にはひよいと沈默が續いた。十二時に近い夜の町は裏通だけにひつそりと鎭まつて、近くの大通から響く電車の軋りが[#「軋りが」は底本では「軌りが」]侘びしげに聞こえた。
「さあ大分晩くなつたやうです。いづれまた此處でお眼に掛からうぢやありませんか……」老人はふとかう云つて立ち上つた。そして[#「そして」は底本では「そしで」]、帳場へ急いで拂ひを濟ますと、また私の處へ戻つて來た。そして、覺束ない日本語で云つて、手を差し延べた。
「さよなら……」
「ダス井ダニエ……」私は老人の手を力強く握り締めて、互に親しみの籠つた笑顏を見合せた。
 老人は少しよろめくやうにして戸口の外へ出て行つた。私の眼にはそのうしろ姿の寂しさが強く殘つた。私は自分の椅子に歸つて、Kと共に詞もなくぼんやりしてゐた。
「おい君。先生。話の樣子はどうだつたい? 厭やにしん[#「しん」に傍点]猫を極めてたね……」離れた卓で給仕女達とふざけてゐた醉ひどれ男は、縺れた舌でがむしやらに呶鳴つた。
「やつぱりロシヤから遁げて來た、可哀想な老人ですよ……」云ひながら、私はコツプを取り上げて、飮み殘しの冷えたビイルを一息にあほつた。
「はつはつは、人間、ロシヤなんかに生れるのが不仕合せだ。己は日露戰爭のちよつと前に日探の嫌疑で掴まつてね、三月ばかりチタの監獄で臭い飯を食つたよ。そん時しみじみさう思つたね……」と、頭を短く刈つて、二重廻しをだらしなく羽織つた、でつぷり肥つた體のこなしの何處となく卑しい感じのする男の樣子が、支那浪人と云つた想像を私に描かせた。
「ぢや、そん時のロシヤ語ですね。」
「さうだ。ロシヤ人だと云ふんであの年寄と話さうとしたが、ガスボデイン、ダア、ニエエト、それつきりしか覺えてねえんだ。これぢやお話にならないさ。はつはつはつは……」彼は身を反らして、腹に波打たせるやうにして、無遠慮に哄笑した。
「行かうぢやないか……」と、Kに促されて、私達は拂ひを濟まして立ち上つた。
「まあ待ち給へ。もう少し
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